犬と骨

 実家の犬が生き返った。享年二十で死んだから、死ぬことなく生きのびつづけていれば今年で五十になっていた。が、当然のごとく生きのびつづけることがなかったので、いま電話の先で吠え立てているジョニーは、いま、まだ、二十歳のままだ。生まれたのはたしか夏の盛りだったので、あと二、三ヶ月もすればふたたび齢をかさねることになるけれど、じゃあいったいそれは何歳と呼びあらわすことができるのか、ぼくにはよくわからなかった。そういうことだから、とにかく、と母はなるだけはやい帰郷を促し、愛犬の死に目と生き目──生き返り目? どちらにせよそんなふしぎなことがあってたまるかという不可解な心持ちを胸に巣食わせながら──に立ち会いそびれた新旧の後悔に追い立てられるようにしてなつかしい地名の印字された切符を買い、押し入れからひっぱりだしたキャリーバッグに荷を詰めはじめた。連休はじめの、うわついた昼下がりのことだった。
 ジョニーはぼくが生まれる前から実家の庭を走りまわっていた。父の手でそれなりに整備された芝生の上を風のように駆け、ときにはその場で宙返りなどもしたりして、まだ幼かったぼくの姉を驚かせもした。父も姉も、もうこの世にはいないから、そんな風景は二度と見ることができない。ジョニーが死んでからは庭も手入れされる回数が減って、父がその生を全うしてからは、ぼうぼうののび放題となったさまざまな草花が母の目をたのしませた。ある基準に則ってきれいに整備された庭園よりも、雑然とした荒れ地のほうが風情があっていいじゃない、というのが母の風景に対する持論で、父の存命中には周到に隠し通されていたその欲望が、箍を外したようにあふれた結果がいまぼくの目の前にひろがっている光景だった。ひょろっとした茎の先で、橙の花をぷらぷらとゆらす草が楽隊のように身を立たせている。
「意外と秩序があるでしょう」
 茶の入った湯呑をふたつ盆に載せ、母が戻ってくる。
「あそこに並んでるオレンジいのがナガミヒナゲシ。その奧の白いのがハルジオン。もうだいぶにぎやかになっちゃってね。ほら、あのあたりにはタンポポなんかも咲いてるの」
「うん」
 ぼくは手渡された茶を啜りながら、母の声にしたがって花の咲くのをながめる。陽の光を受けてつやつやとかがやく緑の上にひらくさまざまな花弁の合間を、ひらひらと蝶々が飛ぶ。母が「にぎやか」という言葉であらわした庭は、複雑な線によってみたされていて、ぼくの立ち入る隙は一分もないように思えた。じっさい、足の踏み場をつくるには、草花の上に汚れた靴の裏を押しつけるほかはなかった。記憶のなかの庭は明確に区分けがなされていて、もっと単純なすがたをしていた。当時は庭を見て「単純」なんて思いもしなかったが、よく茂った眼前の植物たちの存在が、事後的にそのような解釈を促していた。のどを通り過ぎた茶の味は、むかしとまるで変わりがなかった。
「ところでジョニーは、」
 切りだすと、母は胸の前で手をたたいて「そうそう、そうよね」とお茶を淹れに台所へ向かったときと同じように家の奥へとひっこんでいった。電話を受けた折には、母の発語に覆いかぶさるような元気な鳴き声が前のめりにはずみまわっていたが、ぼくがここに到着してからはたったのいちども聞こえてこなかった。耳には川の流れる音がしていた。家の裏手にコンクリートでつくられた細い水路があり、そこからひびいてくるのだった。
「ほおら、ジョニちゃん」
 せせらぎを割って、母の声がきこえた。長い年月をかけてたくわえられた脂肪と贅肉とが鳴りに深みを与えている廊下の軋音がだんだんと近づいてきて、母が体躯をふるわせて角を曲がってくるすがたが想像された。ジョニーの四つの脚先についた爪が立てるカチャカチャという音はそこに含まれていなかったが、そのひびきをつくるちょこまかとしたうごきは脳内で再生されていた。その動作の少し上、黒く湿った鼻先がついているはずの場所に、母の両眼があらわれた。思い描いていた位置とはまったくはずれた、床から三十数センチというところに、母の顔面が出現した。
「ワン、ワン」
 丸々と肥ったふたつの拳が、つめたい木の板をたたいて再会のよろこびをはげしく伝えていた。あふれんばかりの歓喜が獣じみた声となって、四つん這いのからだから発散されていた。その拍子に、咥えられていた骨が口もとから落下し、おもさの感じられない音を立てて、もろく砕けちった。