受像のフレームワーク

すでにわれらの憩いの場となった狼騎に行き、映画の話をする。灰皿に増えていく煙草同様、話を積もらせていると背後のテーブルから「黒沢清」という単語が聴こえてきて、なおかつSさんが「審査員いる」と打ちこまれたスマホの画面を見せてきたからにはわれらが卓につよい緊張が走ることになる(のちのち確認したところ、該当の人物はどうやら審査員ではなかったよう)。こわばりを肩に乗せながらしばらく歓談したあと、駅に土産を買いに行くと言ったら皆もついてきてくれたのでみしらぬ街を散歩する。道中、わたしの髭に感銘を受けたおじさんから突然に握手を求められ、応える。歩いていたらいきなり肩を叩かれ、しりあいか?と穴が開くほど相手を見つめたが、わたしのあたまには目の前の顔と一致する顔は浮かばず、代わりに「立派な髭だねえ」という言葉がその穴から放たれたのだった。

ぶじに金澤文鳥をゲトったのちは今日もKさんの案内で焼き鳥屋へ。釜飯と串をバクバク食べる。昨日の中華屋もそうだが、観光客が足を踏み入れないであろうこうした店に連れていってもらえるのはひじょうにありがたい。OさんもKさんもバチバチにおしゃれだった。おしゃれをしようと思うきもちはこのところだいぶ消滅していたが、ふたりを見ていて多少よみがえるものがあった。初日のリベンジにOくんがいっしょに魚と日本酒を、と言いだしてくれて、河岸を変えて刺身で日本酒を飲む。手取川。うまい。店員の茶豆推しがおもしろかった。バスの時間が迫ってきたのでわたしは一足先に店を抜け、夜行バスで東京へ。何年ぶりの乗車かもわからないが、それなりに眠ることができた。金沢滞在中にはクラクションを連打されたこと以外はさほどそう思わなかったが、前の座席の若者が缶チューハイを飲んでいたのを見て、Kさんが言っていた治安のわるさをさいごに感じとることができた。

早朝に新宿着。こんな早い時間に着いてもな、とサザンテラス口のところどころ雨で濡れているベンチに座っていると、山形からやってきたという女子高生ふたりが濡れを避けるためにありえないほどめちゃくちゃ隣に座ってきておもしろかった。座る前のふたりのやりとりもわらった。当人にちゃんときこえているぞ!

ゴールデン街の凪で朝食。24時間営業のありがたさ。こんな朝だというのにあっという間に満席になり、人気の高さがうかがえる。凪はノーマルの麺量が少ないので、大盛りでも平らげることができる。台風近づく曇りの新宿を抜けて横浜へ。マルイが開くまでタリーズで読書。『地図と領土』第二部のおわりまで読む。帯にデカデカと書かれている出来事(ネタバレだ!とキレているにんげんを見たことがある)はまだ起こらない。開店の頃合いを見て退店し、プリストへ。ひろい! 陳列されている商品も東京店より多くてテンションがアガる。ミルキィローズとキュアフィナーレまわりのグッズといくつか買い、階下の駿河屋へ。ひと通り見て外にでると圧倒的暴風雨が待ち構えていた。はあーあ、と思いつつローソンで傘を買って台風のさなか映画館へ。ヨユーで全身がビチョビチョになり、ウエルベックもたわみを免れない状態になる。映画館の入り口がよくわからず、変なエレベータに乗って変なフロアに到達してしまう。

深田晃司『LOVE LIFE』(2022)@kino cinéma横浜みなとみらい。深田晃司最高傑作。プリズムのように乱反射しあう人々が、あるひとつの死をきっかけに再会し、離別し、再会する。精神を建て直す建築のリズム、光から影を横切って、ふたたび光のなかへと歩みだしていく生のありよう。室内を走り回る光≒子供、憎たらしくも愛らしいその「子供性」。やりきれない感情の言語化不可能な発露(ミヒャエル・ハネケ『コード・アンノウン』の冒頭のシーンをわたしは思いだす……)。父親のカラオケシーンにおけるフレーム外の緊張、を破る駆け回るこどもを追うカメラはついぞ沈下するその運動。多面を切断する吐露のドラマ、夫婦を追いかけるシーンのよさ。[なにかしら秩序立てて感想をまとめるつもりだったが、更新日時直前までメモを羅列していただけだったことを忘れていたのでそのまま載っけておく]

鑑賞時間を通して多少は乾いたからだで渋谷に移動し、モディのプリスト出張店へ。あまねちゃんとミルキィローズのグッズを買う。くじ引きはらんらん。HMVブックスとジュンク堂もプラるが、何も買わずに帰る。



モディのプリキュアたち(変身前)


HQハウスに邪魔する前に湯屋へ。台風が来ていることもあり、場内は空いていた。雨風に荒らされた身体を湯船に沈め、しばし沈思する。水風呂に入り、ここにはサウナがないんだっけなとそしがや温泉21をなつかしむ。湯船と水風呂のローテーションをなんどかくりかえし、いざあがらんと水シャワーを浴びていると、レバーをいじっても水がドバドバ止まらない状態になり、いそいでからだを拭いて番頭さんに助けをもとめる。が、単に水の切れがわるいだけでどうもこわれたわけではなかったようである。点検をおえて説明にきたオーナーの笑顔にひと安心してロビーまでもどると、どうも風雨がやばい音を立てており、しばらく看板猫の毛繕いするさまをながめながら雨雲が去るのを待った。誰もいない家に帰り、『LOVE LIFE』のパンフを読んでいたらいつの間にか眠ってしまい、Hさんが帰ってきたタイミングで目が覚めた。挨拶を交わし、退職祝いにもらったという日本酒と菓子で乾杯する。ミラが観客賞を獲った祝酒だ。

Qさんが帰ってきて、3人で銚子丸へ行く。銚子丸の寿司はうまい。夜にはジンギスカンが控えているのでほどほどにしなきゃだめだと諭してきたHさんが、夕方になっても「腹いっぱいだ……」と嘆いていた。Sさんと駅で合流し、ラム肉を焼き、食す。うまい! 噂通り「圧倒的ウマ」だった。際限なく食べられそうだったが2軒目の予定もあったのでほどほどにしつつ、Sさんを祝う。2軒目ではOくんもやってきて、串焼きを食べながら酒をガブする。延々とサムライロックを飲むHさん。Sさんと別れて4人で家にもどり、音楽をかけながら談笑。現代ポストパンク考だ、とプレイリストをつくったはいいが、Qさんの後を追うようにしてわたしもすやすや眠ってしまう。

04:56に目覚め、二度寝、三度寝をくりかえす。いつの便で帰ろうかなとチケットサイトを見ていると、午前の便に安い券種がでていたので購入。しばらくしてHさんが起きてきたのでしばし歓談し、別れのあいさつを交わす。コンビニで買ったおにぎりとサンドを食べ、バスでは『地図と領土』を読み終える。さらにバスを乗り継いで、自宅にもどってくる。乗客は3人きりだった(途中、制服すがた少年がひとりで乗ってきて、誰よりも早く降りていった)。

ちゅきちゅき触覚デンタルフロス

「コレクション展1 うつわ」@金沢21世紀美術館。タイトル通り「うつわ」をテーマにしたコレクション展。展示室を限定したこぢんまりとした展示だったが、とりわけ中田真裕の陶芸がよかった。工芸的なものに惹かれる感性をまだあまり持ち合わせていないが、それでも目を奪うちからが作品にあった。

つづいて、鈴木大拙館へ。展示自体は「こぢんまり」だった21美のコレクション展よりもさらに小粒。とはいえ、建築がよく、しばらく滞在した。「露地の庭」と名付けられた中庭を見渡すスポットにはふたつの座椅子が置かれており、そこの片方に腰を落ち着けた。庭に生えた木から落下したであろう枯れ葉が蜘蛛の糸にぶらさがってあり、風に吹かれてゆれているのが目に入る。大拙は禅のひとであり、霊性のひとで、そういった展示室を抜けてきたわたしは「メタファーだ」と思うが、なんのメタファーかはわからない。メタファーがメタファーそのものとしてそこにある、という現象としてその光景を見つめた。ガラス窓と直角にのびる壁面のコンクリートには羽虫が何匹か体当たりをしており、目に映るすべてが暗喩的な事物として存在していた。



鈴木大拙


館の裏手の林を歩き回って蝶(たぶんツマグロヒョウモン?)の花に止まるさまを撮影したり、松風閣庭園で蚊に刺されたりしながら、室生犀星記念館へ。途中、ひじょうにいい川が悠然と流れており、胸がすく思いがする。どこか鴨川を思いだすこの川は犀川といい、それこそ犀星の犀の字はここから取られているそうだ。展示は朔太郎と犀星のふたりにフィーチャーしたもので、朔太郎が好きなわたしはたのしんで観ることができた。朔太郎のもとへころがりこんで平然としている犀星の図々しさがよかった。印象的だったのは常設部分にあった徳田秋聲による稲垣足穂の紹介文。曰く、「人と話し乍らマツチを摩つてその焔をバクバクと喰う」。その図が浮かんでくるようでわらった。

帰路はおおまわりで川の流れを見つつ、オヨヨ書林のちいさい方に立ち寄る。大拙館から犀星記念館に向かう途中も足を運んだのだが、ちょうど店主が外出中で入店できなかったのだった。棚をひと通り見てほしいものがなかったので退店し、狼騎という仮面ライダーにでてきそうな喫茶店に皆は集まっているそうなので、テクテク歩いて向かう。Sさん、Oくん、Kさんがおり、ここでようやくKさんとまともに話す。閉店まで話しこんだのち、Kさんのアテンドで中華料理屋へ。OさんとKちゃんも合流する。ザーサイの炒め物にいたく感動する。何が入っていたのか、ちゃんと見ておけばよかった。ひさしぶりに青島ビールにありつけ、ハッピーになりながら交友を深める。



犀川


OさんKさんKちゃんと別れたのち、kappa堂というバーへ。新天地というきれいなゴールデン街のような場所にあり、金沢で訪れたなかでも随一のムードをもったお店だった。貸し切り状態の2階に腰を下ろしてまずおどろくのは、店内で流れるそれなりの音量のBGMよりもはるかにデカい爆音が外から聴こえてくることだ。窓から路上を見下ろすと、そこにはテーブルや椅子が並べられ、人々は飲み食いし、ふたつほど隣の角の店の二階にはDJブースがあって、スピーカーが外を向いて設置してあるのである。なんというすばらしさだろうか。この音楽はなんだ?とQさんにビデオ通話をかけたり、ヒロトがMCしてるよ!とわらいながら3人で話しこんでいるとちいさな女の子が階下から上がってきて、その軟体ぶりをミラーボールのまわる店内で披露してくれる。幼い手にはポケモンカードがにぎられていた。頼んだラムチャイもうまかった。金沢の路上はひとがよく寝転がっていた。サイコーの街の証拠である。

宿にもどって、シャワーを浴びてよくねむる。すべてのシャワールーム(脱衣スペース付き)が埋まっているにもかかわらず、ロッカールームで全裸になる滞在客の男がいておもしろかった。たしかに銭湯的なスペース設計なので、そこで脱いでしまうきもちはよくわかると思った。

旅先でもプリキュアを観てとうめいの涙を流してからでかけることのできる幸福。ギーツの途中で宿をで、カナザワ映画祭にて河野宏紀『J005311』(2022)を観る。長回し主体の作品なのだが、そのカットの切断と持続のリズムや画づくりにノることができず、うーんという感じの鑑賞になった。全編一貫しての手持ちカメラによるゆれうごく心情、はいいのだが、同じく近傍のカメラによってつくられたネメシュ・ラースローサウルの息子』(撮影:エルデーイ・マーチャーシュ)なんかと比べてしまうとどうも画面が弱かった。主人公が死を決意して分け入っていく森の道があんなに踏み固められていていいのか(それを追って撮影するカメラマンの足音が作品に刻みこまれているのはめちゃくちゃよかった、その後のタックルシーンなんかよりもきょうれつなエモーションが宿っていた)とか、冒頭映しだされる住居の台所にかけてある鍋やフライパンはほんとうにあの数でいいのかとか、劇中画面に2度映る「ラーメン」の文字列は要るのかとか、疑問が尽きなかった。男ふたりが出会ってさいしょの諍いが起こるシーン、追いかけていないのに「追いかけてくんなよ!」みたいな台詞がでてきておもしろかった。Sさんには「たばこを吸ってむせる映画同士ですね!」と軽口を叩いておいた。

つづく作品も観るというSさんと別れ、Oくんとゲッコ洞でカレー。「チキンとカカオのカレーしかありませんが、」と言われ、それを注文する。うまい。店の雰囲気もよかった。食後にはステッカーももらった。Oくんとは映画の話をした。『J〜』の流れからロードムービーの話になり、フリドリック・トール・フリドリクソン『コールド・フィーバー』(1995)をすすめた。ちょうどアピチャッポンの《フィーバー・ルーム》が上演(?)されているときに妹とユーロスペースに観に行った記憶がよみがえってくる。



カレー


金澤文鳥を買うぞを意気ごんでいった清香室町は休みで肩を落とす。稼ぎどきのはずの日曜日なのに!

でっかい方のオヨヨ書林で映画を観おえたSさんとも合流。旅の思いでに、と山口昌男『歴史・祝祭・神話』を購う。Oくんはビートたけしの本をゲトっていた。Sさんは現代文学の棚を漁っていたようだが、収穫はなかったようだ。

マリアナ海溝よりも深いヴァジャイナ

北陸の電車の肌寒さの洗礼を受ける。あまりの寒さに対面のシートに座るおじさんは自らの腕を擦りながらうわ言をうめいていた。車窓に映るのは霧をまとった霊験あらたかそうな山々と、その手前に建立されたべらぼうにデカい工場。そこで働く人間たちの通勤車両が草木のはざまに膨大に敷き詰められたさま。振りかえれば、窓の向こうに海がドカンとひろがっている。海のおおきさを表現するのに「ドカン」という擬音をつかったのは人生ではじめてかもしれない。日本海を目撃するのは云十年ぶりの気がする。太平洋ばかりを目にしてきた人生だった。いや、そもそも海には慣れ親しまずに過ごしてきた30年だった。なぜおれはそんな貴重な海側を正面に見る位置に座らなかったのか。きらめく海面を見てもこころが浮き足立たない(のかどうかはしらないが平然としたままの)地元の高校生たち、、それにしても路線名がいい。えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン。あいの風とやま鉄道。何回か乗り継ぎをし、ぶじ金沢に到着する。Oくんと現地で飲もうと話していたのだが、ながいながい移動だけですでに疲労困憊。酒を飲む体力がない。



金沢駅


休憩がてら、たのしみにしていたもりもり寿しの行列に並ぶ。と言っても店の前にはベンチがあるので座って本を読んでいるだけだ。平日夜の20時台の到着だというのに入り口前に設置してある発券機には「20組」と待ちの人数が表示されており、ラストオーダーまでに入店間に合うかなのきもちと、これだけ人気なのだからさぞかしうまいのだろうという期待がないまぜになって胸中に巻き起こる。しばらく頁をたくっていると思ったよりもはやくわたしの番号が呼ばれ(発券だけして帰ってしまうひともそれなりにいたのだった)、コロナ対策で二席一組形式になっているカウンターに着座する。閉店時間も迫っていたので、タッチパネルでガンガン寿司をたのみ、ガンガン食う。うまい。うまいのだが、値段の割には微妙というか、、あまりにも期待がでかすぎた。出発前、人生でいちばんうまい寿司を食いに行くぞ!とおれははりきっていたのだ。朝捕れ!みたいな文句がメニューに書いてあったので、夜に行ったのがわるかったか。評判高いノドグロも食べたが、あまりピンとこず。5000円払うのならもっといい寿司が食えたのでは?と会計後に思った。オーダーのしかたもしくじったのかもしれない。ウニとトロはひじょうにうまかった。まごうことなき感動的な味だった。

ふくれた腹をたずさえながらの宿までの道のり、「安倍政権の不正云々」と言いながら冊子だかビラを配っている若い女性2人組がおり、サイコーの歓迎だ!とテンションが上がった。もらわずに通り過ぎてしまった悔恨がいまだ残っている。インディペンデントな活動家のいる街はいい街に決まっている! 宿ではアメニティのつかいかたをしらないばかたれが脱衣所をびしょ濡れにしていて不快だった(翌日フロントでもらったアメニティの入ったバッグには前日はあったはずのタオルがいちまい入っていなかったので、ばかたれは宿泊客ではなくホテル側だったのかもしれない)が、それ以外は静かでよかった。

めちゃくちゃに早起きしてしまう。旅の第一の目的はカナザワ映画祭で、上映時間まではだいぶ時間があったので、どうするかなとベッドに寝っころがったまま計画を練る。近江町市場では朝早くから海鮮丼が食えるらしいとしったので、それを食べ、金沢城を散策しつつ21世紀美術館に行こうと決める。それでもまだまだ時間に余裕があり、ゴロゴログダグダして7時台に宿を出発する。まだ8時前だというのに市場はそれなりににぎわっており、もりもり寿しの前には長い行列ができていた。市場をひと通り回って入る店を決め、2500円くらいの海鮮丼を食べる。おいしくない、、そりゃこのあたりはどこもそうなのであろうが、「観光客向け」のハズレの店に入ってしまったのだった。ノドグロのあら汁は胃に染み渡った。隣の店に入ればよかった!と後悔を背負って金沢城跡へ。木漏れ日がいい感じの射しこむちいさな林があり、たのしい気分になるが、次々と羽虫が襲いかかってきて不快な気分にもなる。天守閣はないのだなと敷地内をぐるりしたのち、金沢21世紀美術館へ。受付に並ぶひとたちを眺めながら、館外に設置されている美術作品を見物する。雰囲気が十和田の現美にちょっと似ていると思った。あちらは西沢立衛、こちらはSANAAなのでさもありなん。館内も展示室をのぞいて一周し、ショップで写真集をパラパラして開映の時間を待つ。



金沢城跡の林、おれはここで行ったこともない自然教育園のことを思いだす、保坂和志「夏の終わりの林の中」の林……


上映前にロビーでSさんチームと合流し、カナザワ映画祭へ。澁谷桂一『ミラキュラスウィークエンド・エセ』(2022)。ホラー的な音響設計にまずおどろく。とりわけ窓や扉が開閉する場面での轟音は、異界からの風のように作中に吹きこんでいた。「波打ち際」の音が被さる菊地と水死体温泉さんの会話シーンが明示するように、その異界とは彼岸と此岸を分け隔てる「海」のことである。「#エーゲ海で〜す」という言葉で茶化される劇中でのその場所は、狭く暗い菊地のアパートの部屋とも、饐えて澱んだ感じのする彼の職場ともちがって、真っ白く、明るんでいる*1。より狭く、と画面の中心に向かっていく圧がスクリーンの四方から感じとれるほど「閉所的画面」への志向が匂い立つ本作(ゆえに、引き画になった際の「バーベキュー禁止」の文字が際立つ)において、画面の奥で発光する橙色と緑色の光源とともに、その白は「向こう側」の象徴として光っていた。行き場のない登場人物たちは、この暗闇と光のはざまで、紙飛行機を飛ばしたり、シャボン玉を吹いたりする。落下と上昇の力学。あるいは職場を挟む「自然」と「都市」の異なるありよう。こうした対比は運動や風景のレベルだけではなく、ポポちゃんとかおりという人物のレベルでもおこなわれる。さらには、ポーズや動作の反復もくりかえされ、次第にその「意味」ではなく、「対比」と「反復」自体が前景化していく。

さて、タイトルに冠された「ミラキュラス」とは「奇跡的」という意味だが、奇跡は反復しえないからこそ奇跡なのである(その反復をこそ奇跡と呼ぶ習いもあろうが、「その反復」が反復してしまえばそれはもう奇跡ではない)。「エセ=似而非」という奇跡に対する否定の語は、劇中でもこのようなかたちでこだましているのだ。そして、奇跡はnormalcy正常なものとの対比関係の上においてそう名づけられる。「奇跡」という現象を取り巻く概念が作品の至るところに息づいているからこそ、さらには「金曜日」が執拗に反復されるからこそ、本作に充満する閉塞(≒解放へ)の圧力はかぎりなく上昇しつづけるのだ。

劇中、複数の人物にまたがってふるまわれる行為は普遍的な報いを受ける。紙飛行機はつねに墜落の一途をたどり、シャボン玉は破砕する運命にあり、罪を犯した者は最終的に裁きを下される。そこに奇跡は介在しない。しかし、「光」を見いだすことはできるかもしれない。「命は光るんだ、人生でたった二度」。その誕生と死において生命に光が宿るのであれば、わたしたちが劇場で浴びる光もまた、同様のかがやきを持つはずだ。スクリーンに灯った映画の光、それは奇跡の名で呼ばれない。手をのばしあうことで必然的に結ばれる、「信頼」の明滅だ。その一瞬の共犯を、「奇跡的なるもの」を「拒絶する」態度を貫くことによって肯定するのが、本作という「光=映画」のありかたである。

*1:「海」に関してもう一つ付け加えておくと、劇中、かおりの写真が挟まっている本は秋亜綺羅の第1詩集『海!ひっくり返れ!おきあがりこぼし!』であり、この書名に宿る対極的なベクトルは本作にも根を張っている。

きみを見つめる目の数のなかのぼく

他者の生がなければ自己の生など規定できない。他人のブログを読んでいて思った。行ったことのない場所に住む、名前もしらないひとの、酔っ払ったまま自転車で駐車場を走っているブレた写真を見て、ひどく心をうごかされた。

昨日Hに聞いた話は重石のようにわたしの心に居座っている。このような荷物をどれだけ自身に積めるか、しまっておけるかが、生むものの重さを左右するのだと思った。

夜、もやしのナムル、豚舞茸玉ねぎ油揚げの炒め煮。うまい。めずらしく妹と食事のタイミングがいっしょとなり、彼女の好きなアイドルがアニソン曲当てクイズをしている動画の音声だけを聴いて「デジモンじゃん」などと口を挟んだりする。妹は世代ではないので「butter-fly」をしらなかった。

保険料を支払いに最寄りのコンビニにゆくと、なんとプリキュアウエハースが入荷している!!! 迷わず箱にのこっていた在庫をぜんぶ(と言ってもたかだか4つ、つまりは売れている証拠! 頼むから今後も入荷してくれ!)ひっつかみ、いっしょに支払う。振り込み期限日は明日までだと思っていたので、たるいたるいとチャリを漕いでいったのだが、そのたるさが一気に吹き飛ぶよろこびがあった。ひとまずいちまい開封する。颯爽登場! シャイニールミナス

セルフブリーチ。オレンジになる。生え際や後頭部にムラができるが、フェードにするつもりなのでまあいいかのきもち。

夜から翌昼までよくはたらく。休憩時に開けたカルディのルーローハンの缶詰、大外れの味。ウーシャンフェンを振って食べる。また、魚介と野菜のおだしラーメン、パッケージからはあまり期待していなかったのだが、意外とおいしかった。かつおしお味。イトメン株式会社。

荷造りもすすめる。と言っても、着替えと携える文庫本の選定くらいだが。2泊分は先に予約を淹れ、何日まで滞在するかを向こうで決める博打スタイルででかける。こういうゆるさでうごけることのよろこび。

松本俊夫ジョナス・メカス鈴木志郎康。わたしの卒論の核となったにんげんはみな死んでしまった(ほかに登場するブランショバシュラールパゾリーニタルコフスキーなどは執筆当時すでに死んでいた)。死者たちのあつみの上に、わたしは横たわっている。

夜、鶏筍椎茸玉ねぎの炒め煮、味噌味。うまい。

夕から朝までよくはたらく。休憩時にプリキュアウエハースを開封する。キュアプレシャス、キュアヤムヤム、キュアホワイト。何が当たってもうれしいが、どれも試聴済み(中)キュアなのでよりうれしい。ワークもぶじ完了させ、ねむたくはあるがこれでぶじ金沢に向けて出発できる。あたまにバリカンを入れるが最大10mmのアタッチメントではさすがにむりがあった。そんなときもある。

朝、豚エリンギピーマンのチーズハリッサ炒め。うまい。



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金沢へ向けて出発。平日だというのに電車は混んでいた。夏休みももうおわったろうに、車内にはなぜか子供たちのすがたが目立っていた。遠足にでも行くのだろうか。改札を抜け、バスターミナルまで行くと、ちょうどスーツを着た男が窓口に問合せをするところで、わたしもその後ろに立って待っていると、もう一方の窓口に座る女と目があって、無言のコミュニケーションがはじまろうとする。一歩踏みだして何か言葉を口にだそうとするが、スーツ男が問い合わせている内容がわたしのしりたい内容と完全に一致しており、これまた無言の身ぶりで「大丈夫です」と伝えて後ずさりした。このようにして4人のにんげんがコミュニケーションできることを、わたしはおもしろく思う。バスのなかではミシェル・ウエルベック『地図と領土』をひらくも、眠気がぐわぐわしはじめたので後半は走行する車体にゆられながら目をつむっていた。

新潟に来るのは大学時代に『沖縄/大和』という映画の撮影協力として来訪した以来で、その折駅も通ったはずだがその風景はまったく記憶になく(カメラを回しながら改札を通過した所為で新幹線の切符を取り忘れてしまった思いでだけ残っている、到着先で事情を説明したらちゃんと駅員がなんとかしてくれた、ありがとうJR東日本!)、そして想像以上に駅ビルが寂れていておどろいた。駅の1階にブックオフがあることには感動したものの、至るところにある張り紙を見るとどうやら駅ビルすべて(!)が今月末には閉店するらしく、ところどころ棚がスカスカになっていて掘り出すべきものは見つけられなかった。昨晩西日本のひとは東日本の都市の栄えていなさにおどろくという言説を目にしていて、そのことも思いだされた(そんな体験をして到着した金沢、その栄えかたを見てもべつにおどろきが起こるほどのちがいを感じはしなかった)。

乗り換えには1時間ほど余裕があったので昼食を摂ろうと事前に何店か候補を見繕ってはいたのだが、そのうちのひとつであるハンバーグ屋目がけて駅前を歩いているうちにあまり腹が空いていないことに気づき、けっきょく「新潟産米使用」とラベルの張ってある鮭おにぎり1個で済ませたのだった。なぜならおれには今晩、北陸のとびきりうまい寿司が待っているので、、

去勢を強いるアホどもに唾を

外から幼児の号泣がきこえる。せんじつ朝の4時にHさんがはじめたグループ通話で、たったふたりの応答者の片割れであるAが「虫の声すごいけど」とわたしの端末にそそぎこまれるさまざまな鳴き声を指して言ったが、このにんげんの叫びのさなかにも何種類もの虫たちの音色が秋めいたムードを伝えるのがわかった。

小林七郎の訃報。ウテナに抱く印象の何割かは彼が形成していたのではないかとあらためて思いかえす。劇場版の赤い影樹璃回にでてきた夕景と青の表現、ともにつよく記憶に刻まれている。

デパプリ27話。らんらんの妹弟であるりんちゃんるんちゃん登場回。りんちゃんから自らの身体の特徴に言及されて、耳と尻尾を消してほしいと発明家らんらんに頼むコメコメのけなげさに泣く。かつて「みんなとちがう」ことで悩み、そしてそれを乗り越えたらんらんがお姉さん的助言をするのも泣ける。さらには高木くんとの出会いの場を彷彿とさせる水場+ベンチというロケーションでやりとりしているのがまたいい。自らのみんなとは異なる身体を受け入れ、じっさいに「成長」する展開まで完璧だ。ウバウゾーを強化するためのスピリットルーによる応援ギミックを逆手に取るバトル時の作劇もすばらしい。「食べることなど全然楽しくないもんでごわす」と述べる彼に対し、ごはんも(応援と同じで)元気になる! ハッピーになる!と説くプリキュアたち。そして戦闘の途中で幕切れさせるデパプリ初(?)の2話構成におどろく。脚本:伊藤睦美、絵コンテ:志水淳児、演出:ひろしまひでき。デパプリを通してだんだんと伊藤睦美の名がすりこまれてきた。以前からプリキュアシリーズに関わっているスタッフなので、マラソンを通してその過去作を観ていくのがたのしみ。

ギーツ2話。「世界を変えたければ戦うしかない」世界観、ムリってなる。バトロイ構造ってあんまり好きじゃないのかも。戦隊と放映順入れ替えてくれないか?? 来週もつまらなかったらこの時間帯はポケモンに移行しようと思う。

ドンブラ28話。怪盗回。今回の主役である伊集院がヒトツ鬼化する場面、犬塚に「まさかこういう展開だとはな」とツッコミを入れさせるのがいい。はるかのふざけた肖像画でオトすのもたのしい。彼女の表情のたのしさがよく伝わってくる回だった。



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ブログをゴリゴリ書く。金沢出発前に東京滞在篇の半分ぐらいまでは書きおえておかないと追いつかれてしまう。カップ麺、シャウエッセンめしを食べつつ、文字を連ねていく。

チャリの初期のびをなおしにチャリ屋へ。走行中のブレーキの干渉(何がどうなっているのかわからないが音がする)の調整もしてもらい、快適になる。チューブや携帯ポンプも購入する。帰りに幼少期からの友人(?)Hのお店へ。年齢は20以上もちがうし、会うのも1年以上ぶりだが、話が弾んで5時間くらい滞在する。しられざるわたしの父母の話をきき、さまざまなことを思案する。すっかり暗くなったなかを自転車に跨ると、ライトが切れている。充電して1回(しかも20分程度のライド)しかつかっていないのに!

夜、レトルトカレーシャウエッセン疲労がヤバく、グローブとサイクルキャップも洗えず、シャワーを浴びないまま爆睡してしまう。

ユーレイデコ11話。展開もそうだが、それを盛り上げる音楽がとにかくアツい。全体的に「家族」の前景化を感じる。未だ明かされぬハックの家族が怪人0説、あるのでは(というか、そういう描写が為されている)。

夜、ミートボールとピーマンのトマトスパイス煮。ナツメグ、パプリカパウダー、クローブ、ブラックペパー、カイエンペパー。レタスと目玉焼きもトッピングし、ロコモコ風にして食べる。うまい。

金沢行き前に済ませなくてはいけないワークをゴリゴリやる。ブログも書く。こちらは追いつかれる心配はなさそう。あまねちゃんのアクスタ、買うか迷っているうちに予約受付終了になっている。そういう人生を送っている。海外のコンペに落選していた。そういう人生を送っている。投稿したうち未発表の作品がひとつあるのでどこかであっぷしようと思う。

目を切っているひとを見かけるたびに「MEGAKILL」という文字列があたまのなかに浮かぶ。たくさんの敵を一気にたおしたときに表示される文字。一瞬だけやったMOBA(ゲームの名前すら忘れた)の記憶がこうして元の文脈から離れて反復されることのおもしろさ。

ゴダールの訃報。べつに世代ではないので、われらの時代の監督とは誰なのか?と考える。一人も浮かばない。マジで誰なんだ? そういう時代ではないのかもしれない。

憐む奴らは皆殺し

デパプリ25-26話。25話はキャンプ回。往路のドライブ時にグラサンをかける妖精ズとマリちゃんのイケ感がいい。忘れ物の鍋をゆいが受け取る際、もってきたたくみの手の上に手をかさねる描写、キュン死する。着火シーンの失敗したキャラ(あまね→たくみという「できるキャラ」に分類される選出なのがまたよい)が順にちいさくなるかわいい画づくり・演出もすばらしかった。その後に展開されるキャラ総出の着火剤リレー演出もウケたが、後半のバトルでの「協力(おむすびはコメだけにしてならず)」シーンを準備するものだったことがわかり、唸る。らんらんの着火の祈りはあすかパパを思いだした。オチである満天の星空の写真を撮らないらんらんにもしびれる(思いでは心に焼きつけられる!)。脚本:伊藤睦美、絵コンテ:小川孝治、演出:岩井隆央。

26話はピーマン大王回。お腹の虫を鳴らすプリキュアたちに「ぐぅーぐぅーぐぅーのメロディー ユニゾンしちゃうよ」だ!と開幕からテンションがアガる。苦手なピーマンをめぐるコメコメとここねの会話の間のつくりかたがグレイト。ピーマン大王が登場する妄想シーンをはじめとする劇中劇のコミカルさが際立っており、さらにはセクレトルーさんまで変顔する回となっていて、クレジットの演出 土田豊を見て納得した。ここね実食シーンでのメンメン・パムパムの吊り電灯にぶら下がるという立ち(?)位置もヤバイ。そうしたおもしろシーンだけではなく、足指キュッのアップで伝えるここねの心情(階段の一段目に座っているという点も見逃せない)や、ピーマン料理の完成を待つここねをマリちゃんのいるゆいの部屋、ここねハウスの引き画、HCW鳴動シーンのゆいなどレイアウトのキレもバチバチである。このキレたレイアウトとおもしろがすさまじい合致を見せるのが、ピーマンを克服する際に画面に映しだされるコメコメの喉ちんこ視点のショットである(上下に立ち並ぶ巨大な歯列と、そこに放りこまれ、噛み砕かれるピーマンの肉詰め!)。バトルの折、ピーマンを肯定する際に栄養素の話をもってくる点はちょっと気になった。廣瀬純『美味しい料理の哲学』でも触れられていた「かつての生物学的な判断基準を復活させるような、おぞましい思考的後退」の話。作画の気合いの入れぶりもよかった。作画監督は上野ケン。

夜、もやし入り豚ロース生姜焼き。冷奴。うまい。生姜焼きにするならば、わたしはロース肉よりもバラ肉のほうが好きである。



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チャリを買ってからアウトドアブランドに興味が湧いている。アンドワンダーのバックパック、気になる。会社員時代に、会社の入っているビルのエレベータで乗り合わせたひとが背負っていたバックパックのロゴがずっと気になっているのだが、いくら調べてもブランド名にたどりつけない。文字情報がなく、かわいい感じの山のマークだったことはおぼえているのだが。

ユーレイデコ9-10話。8話で描かれたフィンの裏切りは早くも9話で和解する。なぜならユーレイ探偵団内部の争いがドラマの目的ではないので。ヘンテコ語法でストレートに思いの丈をフィンにぶつけるハックのアツさに思わず目頭が熱くなった。かつて受けたトラウマの言葉を、同じ言葉でもって塗り替えていくさまはグッとくる。脚本はうえのきみこ。10話はいよいよ終盤戦という助走回。ロボッチケンが尻をむけて尻尾の先からメモリーカードを差しだす場面、ハックの放つ「お、なんかプリケツした」というワードセンスがツボ。「鵺の鳴く夜は恐しい…」といったオマージュ台詞もいい。ここまで観てきてあらためて思ったのはスマイリーを演じる釘宮理恵のよさである。『京騒戯画』のコトにだいぶやられた感があって、さらにここでとどめを刺された。

小林寛『水星の魔女』(2022)プロローグ。絵コンテやテキストのはこびはウーン?という印象だったが、バッタバタとひとが死んでいく(イデオンか?みたいなきもちが一瞬だけ湧き起こった)物語の展開にはワクワクさせられ、本編への期待値は上がった。ずいぶん暗い話になりそう、暗い話だいすき!のきもち。

夜、鶏茄子の豆板醤豆鼓醤チーズ炒め、コーンスープ。うまい。

乗代雄介『掠れうる星たちの実験』をパラパラしている。「八月七日のポップコーン」の春樹っぽさにわらう。ここまで書いたあと、〈創作〉をすべて読む。天才。マジでどれもすばらしい。「鎌とドライバー」の会話(と動作)のすごさに感嘆して、読後すぐさま作品タイトルでついった検索をかける(何かを見たり読んだりしたあとにおこなうわたしの癖だ)もだれも作品についてつぶやいておらず愕然とする。ブログを書きまくっていた中高一貫校時代をふりかえるエッセイ「This Time Tommrow」の、世界に対する作家の姿勢にも曇りきった目を拭われる。こういう感覚をもったにんげんがとにかく授業後は速攻帰宅し、「いや、実は、オレ小さい頃にホンジャマカの石塚を生で見たことあるんですけど……ホントにすごかったんですよ。一帯がぜんぶ日陰になって……飛行船かと思いました……」(「本当は怖い職業体験」)といった文章をせっせと量産していたことにわらう。

おはようデスゲーム

NIAVへ行く。思っていたよりもちいさく、しかし雰囲気は抜群だった。場所と構成の変化によって展示の印象も様変わりしていて、より「地域アート」の様相が前面化していたように思う。ところで、廃校を再利用する際に「アート」が召喚されるのはなぜなのだろうか? 3331、中之条ビエンナーレ、岡山芸術交流……あらゆる地域の廃校はアートの衣をその身に纏う。つづいてFTMGにも行く。そのこぢんまりさに温かみと品格が宿っていてよかった。暑さはやばかったが。

灼熱。森。夏。日に焼けた肌がポロポロとこぼれはじめてきた。

夜、冷やし中華。具は卵きゅうりチャーシュー。うまい。

夜、鶏椎茸茄子玉ねぎの炒め煮。うまい。

夜、茹で枝豆、ほたるいかの刺身、ほたるいかの辛子酢味噌、ハルーミチーズ、納豆、昨日ののこり。うまい。

夜、鯖カレー。鯖の味噌煮、トマト缶、茄子、ピーマン、玉ねぎを赤缶、生姜、にんにく、クミン、カルダモン、クローブターメリック、カイエンペパー、塩胡椒で煮る。牛乳、醤油、ウェイパーも入れる。うまい。天才。

東京帰りはほぼ鬱になる。とてつもない生の落差を感じるからだ。金沢行きの計画を考えているときだけ元気になれる。寿司、寿司、寿司……。ただただ家族のごはんつくるマシーンになっている。上記の夜のどこかで舞城王太郎阿修羅ガール』末尾の短編「川を泳いで渡る蛇」を読む。メタファー小説を読むちからも根気もわたしにはないので本編の方が好き(本編がメタファー小説ではないという意味ではない)!と思った。ちまたの評判を見ていると逆パターンのひともけっこうおり、たのしいきもちになった。ここでたのしくなるときと、たのしくならないときのちがいはなんだろうか? わたしが読めていないと思うときと、読めていると思うときのちがいだろうか?



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うさぎストライプ『みんなしねばいいのにⅡ』(2021)、映像で観る。あるひとつのカタストロフの渦中で生きる人々の群像、というこしらえは範宙遊泳の『うまれてないからまだしねない』(2014)を思いだした(「死」というモチーフといい、漢字のひらきかたといい、タイトルも似た方向だ)。ダンスを映像で観て、生で観たい!と思ったことはあるが、演劇を映像で観てそうなったことはいちどもないのかもしれない、などと観おえてから思った。つまらないとは思わず、途中で止めることなくさいごまで観はしたが、『うまれて〜』のほうがよく出来ている。スケールの差、集約的な台詞の性質の差だろうか? コンビニ店員と看護師の演技はとてもよかった。

バイス最終50話。戦闘前、一輝とバイスのあいだに一本の木を配することによってふたりの分割を明示し、決着後、バイスが消えてしまう直前には同一のフレーム内に一体となるようふたりを置いて融和を指し示し、さらには消失直後のショットでは分割線となる街灯を一輝の横に置いて空白のスペースを画面に設ける、という画の流れはよかった。が、ストーリー自体の空回り感は否めなく、前半の期待から考えるとどうしてこうなった、、と落胆する最終回だった。このあかるい/かなしい闘いにちゃんとノれるような作劇、これまでほんとうにしてきたのかよ。唐突に登場するキングカズに感動できるような話の語りかたをしてきたのかよ。バイスがいなくなってしまったあとのシーンで、一輝がバイスの声優である木村昴とサッカーをプレーする場面があるのはおもしろかった。

ドンブラ26-27話。26話はいきなりリバイス最終話のふりかえり(映像付!)でスタートする自由っぷり。その「ふりかえり」を受けての「総集編」回、というつなぎも巧み。各人の視点からこれまでの話を振り返る構成となっているが、どんぶらマスターの語りの際にゼンカイジャーまで引っ張ってくる型破りの作劇はほんとうに魅力的だ。27話のスーツのままプールに入るソノイさんや、配達シーンにおけるホーンアレンジでのOPインストもよかった。なんかもはやマジで仲がいいよなノートとドンブラズ。

ギーツ1話。微妙。ざんねんながら、おもしろそう!とはならなかった。次回ライダーとなることが予告された新入社員男性の心のうごきが謎すぎる。ギーツの変身ギミックはカッコよかった。

肝が冷える、というよりも胃が爛れるような出来事がある。マジで勘弁してほしい。おれの健康を奪わないで。さらにはこれが1回きりでないことが予告されており、地獄のような気分。おれはぜんぜん回復していないのだということがわかった。おれの弱い心につけこむような真似をしないで。いま具体的に書くことができないこの問題も、いつかは書けるようになると思って堪え忍んでいく。

夜、豆腐とわかめの味噌汁。惣菜類がたくさんあったので椀ものだけ。遅れてわたしが食べる頃には惣菜類は壊滅していたのでそせじチーズ目玉焼き+キムチ+焼海苔で食べる。うまい。