使い捨て愛情包帯

起床、即、j.comの来襲。敷かれた布団をそのまま踏みつけて部屋のなかへとずかずかと入っていく神経が、j.comという企業体の中枢をつらぬいている。しばしだらだらしたのち、バスに乗ってQさんとうなぎを食べにでかける。川勢。焼身のなんちゅうふわふわさ。もっともりもり食べたいが、おいそれと手がでる値段ではなかった。野球帽(オータニのだ、と自慢気に語っていた)を被った常連と思わしき老父が、隣りに座った熟年のカップルに対してやたらと釣りの話をしていた。店主夫婦にもしきりに話しかけていた。炭火によって香ばしく焼かれるタレのさなかに、家父長制のスメルがした。

ブックオフ・ディギングに向かったQさんとディグの浅瀬で別れ、Aさんハウスへ。MCバトル、際限なき勃起(を強いられる)空間(例:スマホは2年で乗り換えるのがお得! さあ買え! さあ買え!)、アニメなどについて語りながら、「たくさんの的」次号のテーマや〆切を決める。Oの起伏のはげしい生の話、平坦なわたしはおもしろがってきいているが、本人はとてもたいへんだろう。グッドラック。駅で彼を見送り、Aさんと味噌汁が飲めなくなる前に松屋牛めしを食らう。大盛りにしたのに肉の少なさにびびる。これがビンボーの国ニッポンか(国の読み「ニホン/ニッポン」についても話したことを思いだす)。コロナ対策の仕切り板の所為でまったくふたりめしという感じがしなかった。的がんばろうと言って別れる。夜の電車はゴミばかり。電車のなかで傘の先を床につけないやつはひとりのこらず刺されて死んでください。

ロング缶のビールを何本か買って帰宅。Qさんは低気圧にやられて沈没中だったのでひとりで飲みはじめるとHさんが帰ってきたのでふたりで飲む。今回はめずらしく打ち上げで遠い席だったので、ようやく演劇の話をした気がする。「打ち上げの場で、トイレからぼくが帰ってきたときに『ぢるちゃんたのしい?』とHさんが聞いてきて、Hさんさびしそうな顔をしていましたよ」とQさんに前に話したが、その答え合わせができた。だれもさびしい思いなんてしていなかったのだ!

起床、即、LAST PARTYの告知。Hさんがラストパーティーという語にツボっていた。ジャンク飯を目指しQさんとしばし駅前を探訪。けっきょくすためしに落ち着く。すた丼のパクリである。10年以上前に八王子で食べたことがあるはずだが、その味をおぼえていないのでどこまで似ているのかわからない。松屋もこんくらい盛ってくれ。駅前で別れる際、喫茶店に行って『淵の王』をこれから読むと告げるQさんに対して「いちど読みはじめたら止まらないですよ!」と言い捨て、江古田のガシャポンショップまで行って「デリシャスパーティ♡プリキュア クリアファイルコレクション」を4回まわして即ひきかえす。お目当てのあまねちゃんがでたのがうれしい。絵柄がマジでいいのでクリアファイルコレクションは今後も続いてほしい(値は上がっていたがおジャ魔女のもでていたので安心していいか?!)。新宿の紀伊國屋書店に立ち寄るも、売り場がオシャレになっていてちょっと引く。おれたちはあの地味で陰気な紀伊國屋書店が好きだったのに、、

ゴールデン街に移動し、BAR十月でSUGIさんの個展。続々としっているひと、しっているけれど会ったことがなかったひと、しらないけれど話しかけてくれるひとが集まり、すこぶるたのしい時間を過ごす。わたしの展示も来年ここでおこなわれるかもしれない。閉店後は西荻のシャレオツなバーにまで連れて行ってもらい、香りのいい台湾のウイスキーを飲ませてもらう。駅で別れ、富士そばでそばをかっ喰らい、もうだいぶ盛り上がっているラストパーティーになだれこむ。打ち上げで話せなかったことが心残りだったMさんがドアを開けてすぐの場所にいたので挨拶をする。今夜もクイズ大会がひらかれる。なぜこんなにも皆コナンと怪傑ゾロリについてくわしいのかとびびりちらかす。酒を追加しているうちにねむくなったのでまたも早めに寝入ってしまう。

昼前に起床。パーティの残滓。家主のふたり以外では、Mさんが唯一生き残っていた。のこりものには福があるということで、余っていたフライヤーを進呈する。帰り支度をすすめ、クソお世話になりましたとお別れする。キャリーをひきひき、新宿の台湾料理屋にてK先生とランチ。今回は魯肉飯。豆花があまうま。前回来訪時はあまりゆっくり話せなかったので、こうやってまた時間をつくってもらえてうれしいきもちになる。書店に行くというK先生に紀伊國屋書店の変貌ぶりを嘆いて別れる。



ルーローハン、うまい!


東京駅。丸善に行き、美術の棚などを見たのちタルコフスキー『映像のポエジア』を買う。駅にもどり、プリストへ。ひと通り店内を見渡し、SDキャラのアクリルキーホルダーを買って退店。やっぱり東京店はせせこましいのでつぎは横浜店に行きたい。新幹線までは時間に余裕があったので秋葉原にも立ち寄る。すれちがうオタクたちのオタク然とした立ち居振る舞いに、なにか感動のようなものが芽生える。「男らしさ」を履き違えたようなぶつかり無謝罪直進マンの存在にはビビる。降り立った目的はプリキュアグッズだが、めぼしいものは見つからず、何も買わずに再出発。いろいろまわったが、品揃えはまんだらけ一強と考えていいのか? アキバにくわしいひと、教えてください。新幹線は乗換え7分のギリスケだったがなんとか間にあう(切符購入操作をミスって最初からやりなおしになったとき、乗り換え改札とまちがえて出口のほうの改札をでてしまったとき、新幹線のホーム行きの長蛇のエスカレータ最後尾につけたとき、それぞれいやな諦念がじわとからだじゅうをみたした)。

車内では舞城王太郎阿修羅ガール』(2003)の末尾に収められた短篇をのぞく本編を最後まで読み切る。おもしろかった。ふたつしか付箋を貼らなかったのだが、読みおえてその少なさにびっくりするくらいたのしんで読んだ。森の怖さ! 貼った箇所のは以下のふたつ。

ガバイゾーな二崎。シェチュネ〜。シェチュネ〜よホント。もうこれからどんな顔して学校来ていいんだか判んねーだろなーの二崎。シェチュネ〜。

おじさんの名前は吉羽孝明。おばさんの名前は吉羽沙耶香。おじさんとおばさんの息子は三人いて名前は真一、浩二、雄三。三人は三つ子ちゃんで、グルグル魔人に殺されて首と両手両足を切られてバラバラにされて多摩川の河川敷にまとめて捨てられていたのだ。

前者の「シェチュネ〜」という語のもつティーンの言語感。時代を超えても「わかる」となり、こうしたディティールの抽出がリアリティを形成するのだ!と貼った(貼ったときは「わかる」までしか思っていない、リアリティ云々はいまネツゾーした部分である)。後者は前触れなく開示される人物の紹介で、こうした箇所はほかにもあったのだが、すぐには見当たらなかったのでここだけに貼った。後半にでてくる要素を、前半に明らかな異物として、あるいは自然な感じで登場させる仕草をおもしろく思って貼ったのだった。ほか、地獄めぐりの際のデカ字による直接的なメッセージもグッときたポイント。単純といえば単純なしかけなのに、かなり心をゆさぶられた。

土砂降りのなか帰宅。冷蔵庫にあった肉の煮込みをレンチンし、ご飯を入れて食べる。たまった洗濯物を洗濯機のなかにぶちこむ。シャワーを浴びるついでに帽子やかばん類を手洗いする。明日のライドに備えて留守中に届いていたギア類を整備する。よくねむる。

make some noise(yougazer)

昼過ぎにめざめる。相変わらずみなは怖い話をしている。みんなこんなにも怖い話が大好きなんだ。夜通し怖い話をするくらいに! バラバラに殺された妻と娘のからだを縫いあわせて誕生したのが***だ!とだれかの話の話されなかったオチ(つまりはわたしの妄想)があたまにこびりつく。

今日は町田へ。何年かぶりにおやじでおやじ麺。うまい。わたしの食べてきたなかで、暫定トップの味噌ラーメン。そもそも味噌ラーメンを食べることが少ないので母数も少ないのだが、ここの甘みあるスープは忘れがたく舌に刻まれている。のち、町田市民文学館ことばらんどで竹上妙「たけがみZOO」展。会場は建物の2階なのだが、階段部分からメインヴィジュアルともなっているチーターが歓迎してくれる展示構成が冴えていた。段ボールを支持体とした半立体の動物たちはにぎやかでたのしい。同じ時間帯に来場していた子供たちもたのしんでいたようだった。



竹上妙「たけがみZOO」展 展示風景


つづいて学生時代によく通ったブックオフへ。探していた本は見当たらなかったが、干刈あがたの『野菊とバイエル』を見つけたので買う。行きの電車でkacでアケルマン特集をやっているのを見つけており、次回上映まで時間的に余裕があったのでツインズ、マルイ、モディなどもめぐる。外は土砂降り。めぼしいものは何もなく、新百合ヶ丘へ。川崎アートセンターにてシャンタル・アケルマン『アンナの出会い』(1978)。序盤からねむいカットの連続(ねむいことはわるいことではない、おれはタルコフスキーを観てガン寝する)。不通電話の代償として渡される10マルク、しかし金は心を満たさない。『東から』(1993)で真価を発揮していた移動撮影はすでにこの作品のなかではっきりと芽吹いていた。アケルマンにはハネケも影響を受けたと以前目にしたことがあるが、たしかにつめたい画づくりは共通するものだと思った。「あなたのことを話して」「愛してと言って」と具体的に自らの娘に投げかける母、彼女と別れたあとの娘・アンナのバストショットのよさが印象的。

家系ラーメンが食いてえなと思い、なつかしの町田家へ。新百合ヶ丘店はおそらくはじめて。ひと口食べ、そうそうこんな味だ、という感じで、ふたくちめにはもういいよという気分になるが、また時間が経つと食べたくなるのだろうなと思う。帰りの電車でムージル『三人の女・黒つぐみ』ようやく読みおえる。描写がことこまかすぎて目がすべりまくる。ねちねちねちねちと同じ場所・同じ時間のまわりをつつきまわし、ぐるぐるぐるぐると似たような道を歩きまわっているのにつかれる。とくに末尾におさめられた「黒つぐみ」なんかは戦地で槍が振ってくる場面以外はすこぶる退屈だった。先刻観た『アンナの出会い』も退屈だったが、あっちにはこちらを照らすかがやきがあった。こちらはどこまで行ってもぬかるみの様相で、疲労だけがあった(前半はそれなりにたのしんでいた気がするが、読みはじめて何ヶ月も経っているのでもう忘れてしまった)。脚はこの経験をきちんとおぼえていられるだろうか。

玄関のドアを開けると、Oくん、Nちゃんがきており、今朝見送ったはずのNさんまで布団でねむっていて、今夜もおわらないパーティがつづいている。スピーカー、あるいは生演奏の形態でかき鳴らされるアジカンで夜が更けていく。花火もやる。家のなかでやる。線香花火がパチパチとはじける。もうもうと煙が上がる。家主の片割れであるQさんはねむっていた。ひとり、またひとりと消えていくなかで、Oくんと明け方まで話をし、彼が帰るのを見送る。

目がさめたとき、今朝ねむったときの人数よりも多い数の声がきこえてきて、正気か?と思ったが、もういちど目をあけるとわたし以外のだれもが消えていて、夢か?と思った。シャワーを浴びたり水を飲んだりしているとHさんQさんが昼食から帰ってきて、今朝はだれも増えてないよと諭される。ほんとか?

Nさんの置き土産のパンを胃に入れたあと、まずは国立新美術館でリー・ウーファン展。ウーファンではなくウファン表記になっていた。べつの作家でも読みが変わったなあと思う展示が何年か前にあったと思うが、なんだったっけ? ミュシャだ! 何年か前にオペラシティで開催されていた「単色のリズム 韓国の抽象」展がよかったなあという思いでがわたしをここに来させたのだが、そのときの感動が塗り変わるわけでもないボチボチの展示だった。ヤミーズ 旧ヤム邸でカレーを食べ(うまい!)、お次は森美術館へ。「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」展。キュレーションはちょっとよくわからなかったが、お目当ての小泉明郎の新作がよかったので満足感はあった。原美で観た展示から引き継がれている作風の、「怖い」作品。会場には「匂い」を軸にした作品がいくつかあって、マスクをずらすという動作を観客にさせる(もちろんしないひともいる、というかそっちの方が大多数の気がするが)ありかたもよかった。訪れたひとに何かをさせるこのギミックは、わたしがこれまでやってきたすべての展示にも共通項として見いだせることだとこれを書いているいま気づいた。ほか、堀尾昭子の小品に心をうごかされた。わたしもこういうものがつくりたい。



小泉明郎《グッド・マシーン バッド・マシーン》展示風景


帰宅。ひとりで飲み、Qさんと飲み、Hさんが帰宅して3人で飲む。初日の夜以来の3人水入らずだ!とワクワクしていたが、早い時間にふたりとも寝床に入ってしまい、ひとりで夜を明かすことになった。途中までQさんに口頭で伝えていた、Tさんがついったでやりはじめた「#好きなバンド名ベストテン」をここで供養しておく。ランク付はせず、あたまに浮かんだ順。楽曲自体はべつに好きではないバンドも混じっている。

eastern youth
manequin pussy
mmm
リストカッターあおいちゃん
do make say think
badbadnotgood
viet cong
melt yourself down
猿ダコンクリート
vagina witchcraft

ガブ

排気口『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』。生の言葉が胸を打つこと。これまで周到にエモーションへの傾倒を避けていたテキストにおいて、迷彩となる覆いのない位置にキラーワード(しかも作品タイトルを直接的にからめたような!)を露出させており、そのストレートさが印象的だった。一箇の劇団として、次なる場所へと羽撃いているすがたがそこには見えた。戦闘機と爆撃機が飛び交う空を、想像力の羽が飛翔する。ナレーションとしての台詞や、過去を振り返る台詞をのぞいて、本作に直接的な銃撃・爆撃シーンは登場しない。しかし、空襲警報のような泣き声、戦車あるいは大砲のようにキャタピラ/車輪を回転させて舞台上をうごきまわる劇団「平和」の座長、集団自決を思わせるような輪になった人々など、戦火の煙は至るところで上がっていた。まっすぐな言葉が、無数の爆弾が炸裂した複雑な土壌のなかから突きあらわれることで、よりかがやいて見えること。中盤、皆で記念写真/遺影を撮る決定的なシーン(終演後のツイキャスでも劇作家本人の口から話されていたが「歴史」に対する本作のスタンスがここでは示されている)があるが、そこでもまたShootの力学が登場人物たちをつらぬいていることも見逃せない。そこで放たれる銃弾は、生者ではなく死者の手から飛びだしていく。

本作は「演劇」をギミックとして用いている。とりわけ「台本」というおおきな計画書・権力装置に力点が置かれており(そのありかたをめぐって劇中では「闘争」がおこなわれる)、それに比して「演出」はあまり問題化されることがないように思えた。これははたしていかなることを意味しているのか? 演出は演出家から役者へ、つまりは「人」から「人」へのベクトルをもつのに対し、台本は台本から役者へ、つまりは「物」から「人」へと命令(この台詞を発語せよ)を下す回路をもっている。ここで召喚されるのはティーザー映像における赤紙だ。


www.youtube.com
Qさんの肉のない発話は肉体と霊体を転覆させる……さらにそれを逆転させる歌声……


物化したコードに対して、我々は反論することができない。無視というかたちで背くことができたとしても、その命令自体が消えることはない。だからべつのやりかたで、ひとはそれに対抗する。サラは映画という方法によって、チョビタをはじめとする教員たちは台本を書き換えることによって、自らに下された/ようとする召集令状=台本に抗うのだ。本作における台本をめぐる闘争は、賛成過多で劇団「平和」の勝利におわる。この多勢に無勢の状況、つまりは「空気」に抗うことのできない悲哀と、大政翼賛会国家総動員的「戦争」のムードは似た質感をしていると言っていいだろう。チョビタはその叶わぬだろう恋を応援したくなるよう仕向けられたドロミの対面にあたる位置に配されており、観客からのヘイトを買うようにキャラクターがつくられているように思えたが、がゆえに、この「敗戦」がより深々とした陰影を宿すのである。

あるいはここに「演劇」という集団芸術のありかたをかさねてもよい。上官と下僚の関係と、演出家と俳優の関係は、その権力構造において相似している。そうした関係性のなかで台本を自らの手中に置くことは、権力奪取の、すなわち革命の方途である(『午睡荘園』で夢見られる革命同様、これは成功しない)。だがそもそも、自らの理想の台本での上演を希望する彼らは劇団「平和」に対する「依頼者」であり、生徒を引率している「先生」たちである。こうしたねじれの関係も、複雑な土壌を形成するひとつの爆弾としてあざやかな光を散らしていた。

さて、先の問いに答えるとすれば、それは舞台上で展開されるのが「人」と「人」のドラマであるから、とわたしは言うだろう。ステージに立つにんげんがどう振る舞おうが演出的な関係は自然にあらわれてくるのだから、わざわざ主題化するまでもないということだ。そして、劇中でもっともつよく「人」と「人」の関係がむすばれるのは、親分/子分となる猿田とセレセである。終盤、猿田の望むセレセとの空襲の美しい風景の共有は、安吾が書いていた以下の記述を思いださせる。

私はB29の夜間の編隊空襲が好きだった。昼の空襲は高度が高くて良く見えないし、光も色もないので厭だった。羽田飛行場がやられたとき、黒い五六機の小型機が一機ずつゆらりと翼をひるがえして真逆様に直線をひいて降りてきた。戦争はほんとに美しい。私達はその美しさを予期することができず、戦慄の中で垣間見ることしかできないので、気付いたときには過ぎている。思わせぶりもなく、みれんげもなく、そして、戦争は豪奢であった(…)夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなっていた。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのような深い調和を感じていた。(坂口安吾「戦争と一人の女」)

戦時下におけるあらゆる思いを、一語に集約させないという抵抗の身ぶりがここにはある。猿田の見た爆撃が煌々ときらめく空は、先に述べた「空気」の多色性を象徴的に伝える光景でもある。ひとの命を奪う空襲を見て美しいと思う、そうしたにんげんの存在をかき消さないことが、ここでは謳われているのだ。劇中、それぞれが「変身」するすがたの多様も、同じく一に均されないという決意の表出とも取ることができる。そこに映ったものすべてをいちまいの印画紙の上で平面化する「写真」のなかで、レンズに向かって突きだされる二本の指。これもまさしく、Shootに対して掲げられる峻拒の手ぶりである。すベてを等しく瓦礫・死体として画一化させるものに抗うための、凸凹の徹底たる肯定と、そこに屹立する垂直の言葉。そのダイナミズムが、本作の「呼ぶにはとおく振り向くにはちかい」パースペクティブを成立させている。であるからこそ、2日連続で家畜の乳搾りを旅程に組みこむこの修学旅行のイカれ具合も、ひとつの突起として光りかがやくのだ。
 
役者についても少しだけ触れておく。たったひとりで場のトーンをつくる井上文華と、たったひとりで場にグルーヴを生みだすぬ。の両名にとくに目を惹かれた。ともに稀有な力能である。ギャグとシリアスの振り幅がおおきい排気口においては、スイッチャーとしてよりその真価が発揮されていた。また劇団員である坂本ヤマト、中村ボリはその俳優史におけるベストアクトを見た思いだった。本作における主演男優賞・主演女優賞を捧げたい。ボリに関しては前日劇場で会ったときにあまりにもボロボロの声で喋っていて心配していたのだが、ステージ上ではそのダミ声すらも猿田というキャラクターの名のもとにねじ伏せるコメディエンヌぶりを発揮していた。「顔芸」を用いて他者の発語に介入するさまは、地縛霊としての存在を場に焼きつけるさりげなくもきょうれつな方法だった。願わくば次回はそこに佐藤あきらも加えた完全版の排気口を目撃したい。

夜はいちまいの布団の上で焼鳥になるひとらをながめ、アジカンを合唱する。寝入りばな、玄関が洪水になったと怒号が聞こえる。ゴボゴボ鳴る水音を遠くで聴きながら、わたしは夢のなかに深く潜っていく。

めざめると隣に寝ているはずのHさんはおらず、キッチンで寝ているのはNさんのみで、昨日のことがすべて嘘だったかのような静まりかえりぶりだが、なんらかのカスがいちめんにとびちった絨毯を見て、あれは紛れもないげんじつだったことをしる。シャワーを浴び、でかける準備をしているとQさんが起きてきたので、いっしょに昼食を食べに行く。昨日に引き続き今日もラーメン。ひごもんず。角煮がうまい。革マルラーメンとマル特ラーメンのちがいとは。鬱蒼とした髭を生やしたマルクスがスープの底で叫んでいた。餃子まで食べてお腹いっぱい。駅で図書館に向かうQさんと別れ、千駄ヶ谷へ。原宿方面まで歩いてゆき、小雨のなかRapha、マリーエンケーファー、NIKEをめぐる。バーバッグの現物をためつすがめつし、サイクルウェアを試着し、運動しやすそうなショーツを試着する。ほしかったカラーが店頭では売り切れだったので、それぞれ通販で買う。おみやげ水族館では清水さんとモニョさんのグッズを買う。ちょうかわ。ちょうど清水さんが在庫の補充に来店し、ひさしぶりに話せたのもよかった。



グッズ、かわよかろ


西荻にてTさんと合流。四文屋で飲みつつ、制作途中のZINEの打ち合わせ。串を食べつつビールを煽っているとHさんとSさんもやってきたので河岸を変え、さらにはTさん、QさんNさんまでやってきてワイワイする。Tさんに小砂川チト『安心家庭用坑夫』を激推しされたのでゲトりたい。べつのTさんにはジュリア・デュクルノー『チタン』を観てわたしが浮かんできたというからには万難排して観なくてはならないと思う(『RAW』好きだし!)。三次会はHQハウスにて。NちゃんOさんもやってきて、Sさん発案の「Fishmans or DIE」をはじめとするクイズ大会と怖い話で夜は更けていく。静かにNちゃんの話す怖い話に耳を傾けていると、キッチンの窓のあたりに白いものがスッと降りてきたのが見え、わたしの肌は粟立ち、鳥肌の波が幾重にもなって襲いかかってきたのでひと足先にベッドに退散する。Tさんがわらいながら話すクイールのエピソードにわたしもわらいながら眠りに就く。

流れ落ちるキンタマのようだね

旅にでると詩が書きたくなる。だから、ここ何年かは東京に向かうバスのなかで詩行を書くことが多い。天気がわるかった。ターミナルまでは父が送ってくれた。バスの到着を待つあいだに立ち読みをした書店では、安倍の顔がでかでかと印刷された『hanada』の最新号が堆く積み上げられていた。それらのことは詩のなかに書かれない。だから、この場に書かれる。前回なんの酒を手土産に持っていったかしら?と銘柄を思いだせないままに、送迎の車内で父の口から聞いたもう死んでしまった親戚の実家がつくっている酒と、わたしの住む町の名が記された酒を買ってキャリーに詰めこみ、わたしはさほど長くない、しかし短くもない旅路につく。高速道路に入ると雨は止み、カーテンの隙間から吹いてくる風が心地よかった。

出発からしばらくすると、何席か前に座るにんげんがラップトップにちからづよく文字を打ちこみはじめ、わたしの両耳は打鍵音によって苛まれた。前の席に座る缶チューハイを飲むおじさんがイヤホンを耳に詰めこんだのを見て、わたしも同じ動作をする。slagsmalsklubben、ひさびさに聴くがだいぶたのしい。エレクトロ系のライヴに行って踊り狂いたい。shoos off、my disco、okay kayaと聴いているうちに東京に到着する。雨宮まみ『女子をこじらせて』も乗車中に読みおえる。ここに書かれているほどにアクティブ=行動的ではないにせよ、わたしもまちがいなくこじらせているタイプのにんげんなので、そのアクションに至るメンタリティにいたく共振した。たとえばパリコレの世界に対する以下のような言及。

学校でやっていたらイタイ女扱いされたり、イロモノ扱いされたりするとんでもない服装や髪型やメイクが「美しいもの」「素晴らしいもの」として認められていた。私がそこに希望を見たのは当然であり、必然でした。今いるこの世界ではぶさいくでイタイ女扱いの私でも、どこか別の世界では、オシャレだとかかわいいとか言われるのかもしれない。

わたしが服に興味をもちはじめたきっかけは忘れてしまったけれども、「いまここ」から飛び立つための方途である(そんなことは引用文には書かれていないが)という意識はわかる、と思った。ニチアサのキャラクターたちはなぜ揃いも揃って「変身」するのかという問いは、この問題ともつよくむすびつけることができるだろう。「(あらゆる)ファッションはモテのため」と言い切る言説をこれまで多く見てきたが、ものごとを単純化するなボケが!とおれは声を荒げる。おれはおれのために服を選び、服を着る。

ある時、海外のグラフィティアーティストが来日して、グラフィティを観客の前で描く、というイベントがありました。私はそれをすごく観たかった。でも会社を抜けられませんでした。ものすごく忙しいとか、自分の仕事で手が離せないのなら仕方ないと思えたかもしれません。でもそうではなく、単に上司二人が会社にいて、用事を言いつけられるので残っていなくてはならなかった。/それは部下として当たり前のことです。そのために雇われてるんですから。でも私はそういうふうに思えず、「こんなに観たいものも観れなくて、私はなんのために生きてるんだ。こんな人生意味あんのか。このまま一生、やりたいこともできず、楽しいこともできず、ずーっとやっていくのか。仕事をするって、こういうことなのか?」と泣きたい気持ちになりました。

ここも死ぬほどわかる!となった箇所。こんな出来事の積みかさねで彼女は会社を辞めてフリーになり、わたしも会社を辞めてフリーになった。「仕事をするって、こういうことなのか?」に「否!」の言をきょうれつに叩きつけるのが生きていくってことだろう!と書き写していてあらためて思った。あのとき自身を曲げなかったからこそ、今日もこうして遠出をすることができている。

またパーキングエリアでの休憩時に気がついたのだが、ゴスロリの女のひとがちょうどおなじバスに乗っているのもよかった。それぞれのにんげんが、自身の好きな格好のできる世界。内容とはまったく関係ないが、読書をしている最中マスクの紐のぶんだけ浮く羽目になったつるの所為で眼鏡がずり落ちてくるのが不快だった。

新宿に到着し、滞在の世話になるHさんQさんのいる劇場へ。その道のりで観劇後と思われるひとらが作品について話すのを断片的に耳にし、なんとなくうれしいきもちになる。わたしが観るのは明日なので、耳を傾けることはしないが、耳に入ってくるものを遮ることもしない。役者陣に軽くあいさつし、撤収作業を待って3人で帰路につく。中華屋にも立ち寄り、それぞれ味の濃いスープ、腐った炒飯、味の薄い酢豚で食事を済ませる。家ではすこしだけ乾杯し、Qさんのライヴ音源を聴いて就寝。歓迎のファンファーレはQさんのギター&ボイスだと相場が決まっている。

「やばい寝坊した」の声で起床。寝坊したのはわたしではない。しかしこの時間に寝ているのはひさしぶりである。なぜならいまはニチアサの時間であるから。シャワーを浴びた順に劇場に駆けだしていくふたりを見送ったのち、びくともしない風呂場のドアノブと悪戦苦闘してからわたしも外にでかける。胃を満たそうと駅までで、春木屋は雨だというのに長蛇の列だったので近場の丸福の短い列に並ぶ。つよい醤油の味。まずいとは思わないがあまり好きではなかった。もう何年も食べていないが、上に乗っているモヤシは渋谷の喜楽をどことなく思いだした。ワンタンはおいしかった。



丸福のワンタン麺、ビジュがいい!


胃を満たしたのち、駅ビルに入ってキャンドゥと無印良品を巡回する。日焼け止めと化粧水を手に入れるのもこの旅のミッションのひとつだ。前者はいいのが見当たらなかったので、後者を無印で購入して駅に向かう。目指すは笹塚。次は吉祥寺、というアナウンスで電車をまちがえたことに気づく。次いで、階段を逆走してきた女に傘を叩きつけられ、服がビチャビチャになる。

笹塚に移動し、ブルーラグ。雰囲気が合わなくてすぐでる。ブックオフ。何も買わず。ファックオフ。のち、すこしばかり歩いて最愛なるセレクトショップへ。来訪は2年ぶりとか? お店のKさんとお喋りしつつ、カットソーを買う。ここに服を買いに行くたびに足をはこんでいたちかくの古書店にも寄る。ひと通り見て何も買わず。駅の書店で『まじめな会社員』最終巻をぶじ手に入れる。荻窪に移動し、都内時代に愛した古書店のひとつ・ささま書店跡地は古書ワルツで稲川方人『反感装置』、FOR BEGINNERSシリーズの『天皇制』(文・菅孝行)を買って荻窪小劇場へ向かう。

パリパリ・プラスチック・リミテッド

安田佳澄『フールナイト』4巻。おもしろい。すごい。いま読んでいる漫画のなかでもあたまひとつ抜けた完成度。生きのこりたガールのメイからメグへの呼称の変化はなにかの伏線?

夜、麻婆茄子豆腐、油麩と茄子の味噌汁、茶碗蒸し。うまい。マーボーは豆板醤がなかったのでコチュジャンベースで味つけ。茶碗蒸しは市販品。

『ユーレイデコ』7-8話。7話でくりひろげられるラーメンネタはスペダンでも見たなあと思いながら観ていた。みんな好きだもんね、ラーメン! 街の人々へのインタビュー形式で誰も食べたことがない「噂の屋台」について開示していく演出法は、『京騒戯画』でも使用されていた好きな演出法。ベリィのラーメンを啜るモーションや、超再現空間から帰還した際に屋台の椅子からくずれ落ちるモーションにげんじつ的な「肉体」のこだわりを感じる。8話は空から飛来するカプセルをキャッチする回。海原へ出航し、船上でキャッチする際のダイナミックな荒波の作画は、省エネスタイル(ゆえに、レイアウトやコンテがしっかり練られている、会話のテンポもおもしろい)で制作されている本作のなかではめずらしい「作画シーン」だった気がする。フィンの「裏切り」によるドラマの深化は、後半に寄せる期待がでかくなる。

夜、レタス生姜炒飯、ハルーミチーズ、味噌マヨきゅうり。うまい。ハルーミチーズはさけるチーズの味だった。

東京行きが迫っているが、ワークの進行に決着がつかないと日程が組めない。ゴリゴリやる。時間はないが、自分もドキドキできるようなものを投げたいとクライアントワークのたびにつねづね思う。妥協したくないということだ。自主制作の場合はもうすこしちがう心持ちの気がする。「まあいいか」のきもちが、しかし「妥協」とはちがうかたちで放出できるゆるさがある。7月に刊行するはずだったZINE、まったく原稿が書けていない。「SUMMER ISSUE」と表紙に書いていたが、「AUTUMN ISSUE」になりそう。東京から帰ってきたら執筆、と思ったがべつのデザインワークが、それもおおきな山岳が待っているのだった。



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夜、豆腐卵中華スープ、焼きそせじ、油麩・舞茸・豚肉の片栗おからパウダーまぶし焼き、ほたるいかの醤油漬け。うまい。ほたるいかはもらいもの。上品な塩辛という感じ。

イヤホンがまた壊れる。片耳の接触がわるい。もったのは3-4ヶ月くらいか。損壊に気づく数時間前、妹がイヤホンをわたしにくれた。なにかを予知していたのか。予感の兄妹。音質にこだわりはないので、安くて耐久力のあるイヤホンおしえてください。

さいきんMCバトルの動画ばかりを見ている。vs.梵頭でくりだされたDOTAMAのラストバース「ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!」がサイコーすぎる。梵頭がキレているのもいい。それを見ているDOTAMAの表情もいい。おちょくりのたのしさがある。しうたvs.よんろくの「ただのデブとか言ってるけれど〜」のノリかたもらぶい。

夜、豚にらもやし、梅きゅう。うまい。

先日のヒルクライムのときにできた日焼け、グローブとの境目がくっきりできていてダサい。今後はボディバッグにクリームを常備しようと決めた。チェーンの脱落もよく起きるので指を拭くためのウェットティッシュもあったほうがいい。

なんとかもろもろに決着をつけ、荷造りをする。

深夜、ベッドにからだをあずけてスマホをいじくりまわしているとき、しってるひとの、あるいはしらないひとのブログを読みながら、その媒体選択としてまったく流行していないメディア、つまりはたんぶらーやはてなブログ、はては個人サイトを選ぶメンタリティをわたしはいいなと思う。逆にテンションが下がるメディアもあるのだが、その名称は言葉にしないでおく。世界とのぶつかりかた、その姿勢がこういう場に見てとれる気がする。

貫通正常同盟

人生の悪循環。

夜、豆腐とわかめの味噌汁、カルビピーマン玉ねぎのタレ焼き。うまい。傷みかけの桃を砂糖で煮詰め、ヨーグルトとはちみつ、柑橘酢を混ぜて凍結。シャーベットをつくる。明日食べる。

今日はここまでやるぞ、というノルマを終え、漫画。を読むはずがブエルタの無料配信をやっていたのでそっちに釘づけになる。途中、Qさんから着信があり、HさんNさんも交えて通話。レースも見つつ、夜中までHQハウスのムードを浴びる。

デパプリ24話。ゆいの骨付き肉枕にわらう。夏休みの宿題をみんなでやるシーン、ページの「めくり」を2Dキャラによるデフォルメシーンへの画面遷移にも利用したコミカル演出が効いていた。おばか組と優秀組の変顔と真顔を対比させる真下からのショットや、首がベッドに90度倒れこむらんらんなどレイアウトもたのしく、作画コストを下げつつもたのしい画面をつくる力がみなぎっていた。絵コンテ・演出は横内一樹。プリキュア参加はおそらく初。おぼえておきたいコンテぢから。前半に妖精たちが遊ぶ「ままごと」や「だるまさんが転んだ」を、後半の戦闘シーンにもつなげる山岡潤平の脚本も見逃せない。ブンドルーしないナルシストルーにはオッとなり、いよいよ直接戦闘に身を乗りだしてきた(しかもつよい!)のも今後への布石を感じる。

バイス49話。湯船で水かけイチャイチャしたり、喫茶店パルフェ/パフェ問答をする狩ちゃんとヒロミのBL感。アヒル化するバイスの謎。

ドンブラ25話。神輿の担ぎ手と踊り子がつぶれかけのレストランを盛り上げるためにフツーにでてくるのがおもしろい。次回予告でピー音入れつつ「リバイス最終回」というワードをもちだしてくるパワーにもウケる。

髪を切る。セルフカット。坊主。さっぱり。セットアップで決めてアー写を撮りたい。

ふじちか『スケバンと転校生』1巻。ついったで1話を読み、ギャップ萌えへのシンパシーをつよく感じたので買った。表紙に印字された「1」のナンバリングにつづきものなんだ!とまずおどろく。コミカル方面のストーリーテリングにちょっと抵抗を感じる場面もあるが、「萌え(あるいは帯にも書かれている「尊い」)」ポイントの彫琢の技術があるので神崎同様「きゅーん」となるわけである。百合百合しい(とはなにか?)百合ではないところがいい。あるいはこれは百合百合しいのか?

まえだくん『ぷにるはかわいいスライム』1巻。この年になってコロコロ(本誌ではないが)掲載の漫画を買うとは思わなかったが、とにかくぷにるがかわいい。特典のアクスタもかわいい。コズフィッシュが装丁をやっているのもアツい。指に吸いつくようなこのカバー用紙はなに?



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早朝ライドするつもりだったのだが寝坊し、しかし明日からしばらく雨っぽいのでライドンシューティンスターする。はじめての本格的なヒルクライム。今日は登るつもりはなかったのだが、坂のはじまるあたり(というかすでにのぼりがはじまっていたが)を目的地に設定していたがために「まだ体力あるしちょっくら試してみるか」と走ってみたのだった。坂の距離としては14キロ程度、サイコンがないので獲得標高はよくわからないが、グーグルマップのガイドに表示される最高地点と最低地点の単純な差は667m。ほんとうに死ぬかと思った。人生でつらいことベスト10に入りそうなきつさ。誇張なしにひいひいいいながらペダルを漕ぎ、空からはばかみたいな直射日光が降り注いできて汗だくになり、中学生ぶりぐらいに全身に塩を吹いた。登攀中の向かい風の過酷さを身を以てしった。まだ登りきっていないタイミングでボトルが空になったときはさすがに引きかえそうと思ったが、あと2割もいけば目的地だったので気合で踏んだ。ほかなんどもあきらめかけ、なんども足をついたが、せっかくここまで来たんだしという貧乏性がおれの肉体をうごかしつづけるのだった。走りおえ、カラカラの喉に注ぎこむスポーツドリンクのうまいこと、、ソフトクリームのうまいこと、、目的地が補給できる場所でよかった。次回は補給食も携えて登ろうと思った。

そしてダウンヒルのたのしさよ! 人生でたのしいことベスト10に入る爽快感。いわば死ぬ可能性がより高いジェットコースターである。パルクールなどもそうであろうが、恐怖はたのしいと紙一重なのだ。からだを酷使して登った甲斐がある。下っている途中、チェーンが脱落する場面があったが、ダウンヒルの最中はペダルをほとんど漕がないので事なきを得た。熊のでる山で、獣の糞などを見かけるたびにびびっていたが、休憩中にブンブン羽音をうならす蜂のほうが怖かった。これはまったくたのしくないほうの恐怖である。全体の走行距離としては60キロくらい。帰りは平坦な道すらもう走りたくねえとぜつぼうしながら走っていた。

夜、厚揚げチーズ炒り卵のかつぶし生姜酢焼き、ひき肉エリンギニラのオイスターソース炒め+母作のシーザーサラダ。うまい。こんなときでもきちんと皆のごはんをこしらえるおれのえらさ。えらすぎる。あまりにえらすぎる。世のなかのはたらく家事労働者に祝福を!

無償想定の依頼、あまりにつらすぎないか?

生の仇打ち、頭打ち

雨宮まみ『女子をこじらせて』読みはじめる。住本麻子の書評を読んで気になり、手にとったのだった。まだ大学を卒業してバニーガールになったあたりまでしか読んでいないが、わたしが非モテ文学を読んで慰撫されるように、本作も同様の効能をもつ書なのだとおもった。

夜、油そば。具材は豚バラ、長ねぎ、卵。うまい。

同人会議。前回の開催から今回の開催に至るまでにでた議題について話す。チャリの話などもする。わりと早めに解散する。話しながら、さいきんニチアサぐらいしかまともにものを観てないのはやばいなと思う。圧倒的量不足。

ピョローがかえってこないからピョローを外すのはまあいいとして、その代わりに同じ人物の別垢をピョローするのはどうなん、というような出来事があり、モヤる。単なる数として見なされることの屈辱。おれはあらゆる数値から遠ざかりてえ(いいすぎ)。

この頃家のなかを飛び回っていた蠅を窓から逃すことに成功する。

夜、モロヘイヤのお浸し、モロヘイヤと豆腐の澄まし汁、茹でアスパラ。ヴィーガン的食卓。うまい。

作業中にインデザが落ち(これはいつものこと)、データがそれなりに巻き戻る(これは稀)。復元できませんでしたエラーの過酷さ。もう今日はやめろとのお達しだと思い、PCをスリープさせる。ちかぢかビッグサーにアプデしようと思っているのだがやめておいたほうがいいか(あるいはアプデすれば安定する?)?

鬼頭莫宏ヴァンデミエールのぐぜり』落手。さっそく読みおえる。投稿時代の超初期作がコンパイルされたファンアイテム、という感じだが、おれは鬼頭莫宏がめちゃくちゃ好きなのでハッピーなきもちになる。脆さを感じる身体はずっと

夜、豚アスパラ豆腐のバターレモン醤油炒め。うまい。削ぎが甘くてとてもじゃないが嚥下できないものも混じっていた。モロヘイヤの椀ものが相変わらずうまい。齢30にしてモロヘイヤの風味をしった。

ワークがひとつ見通しがついたのでナイトライドにでかけるが、1キロも走ってないあたりで雨が降ってきて引き返す羽目になった。無念也。しらない道を夜走るのは街灯の少なさも相まって危ないと思った。虫との激突率も昼間に比べて高い気がする。明日は気温が落ち着きそうなので、昼間にもりもり走ろう。



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日中ライド。チャリをショップで見てもらい、異音の原因を突き止めてもらう。ペダルを回して音が鳴るんだから、と見当をつけていた駆動系まわりでなく、まさかのサドルだった。坂を下るときの手汗がいつすべってもおかしくないぞ!という感じで冷や汗もんだったのでグローブを買う。のち、ちいさい頃に住んでいた場所めがけて坂を登る。風景のスケールが変わった気がする。軽いギアでダンシングしようとするとペダルがスカスカになり、足が滑ってこけかける。重いギアだと登れないし、どうしたらええんや(日々乗って筋肉をつけるしかない)!

書店をいくつかまわり、何冊か漫画を買う。どこに行ってもまじめな会社員の最終巻が売っていない(1巻なら複数の店で見かけた)。市街をめぐっている最中、高校時代などによく立ち寄っていた書店がつぶれているのを目のあたりにしたり、今月末に閉店する旨の書かれた活字を見かけたりする。かなしい。書店がどんどん減っていく。

いい感じの砂利道を見かけ、チャリチャリ走っていくと突き当りが民家、みたいなことが2回くらいあり、スマホをハンドルに設置できる器具を買ったほうがいいかもしれないと思った。単純に近辺の道がわからない。今日の走行距離は30キロくらい? 日中は暑さがきつい。ボトルの中身も途中自販機で補充した。日焼け止めを塗ったのに腕や顔に焼けた部位がいくつかできた。スプレー式はこれだから、、

夜、激辛餃子チーズのせ、チキンカツ、鶏ピーマンアスパラ玉ねぎのカレーマヨ炒め。辛い。声がでるほど辛い。ポン酢をかけたりしてなんとか食べる。うまい。

チャリの目的が走ることではなく店(購買・飲食・鑑賞etc.)の場合、ヘルメットを脱ぐと髪がぐしゃぐしゃになるのはどうにかならないかと思いながらネットの海をただよっているとめっかわなサイクルキャップを見つけ、これだ!と注文する。ふたつ目のボトルケージとパッド入りパンツもポチり、地道に装備を整えていく。チャリ屋にいた先客の老夫が買ったばかりのビンディングシューズを指しながら「自転車は(周りの用品で)お金がかかるね」と言っていたが、あらためて「そうですね」と記憶のなかの彼に相槌をかえしておいた。