ガブ

排気口『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』。生の言葉が胸を打つこと。これまで周到にエモーションへの傾倒を避けていたテキストにおいて、迷彩となる覆いのない位置にキラーワード(しかも作品タイトルを直接的にからめたような!)を露出させており、そのストレートさが印象的だった。一箇の劇団として、次なる場所へと羽撃いているすがたがそこには見えた。戦闘機と爆撃機が飛び交う空を、想像力の羽が飛翔する。ナレーションとしての台詞や、過去を振り返る台詞をのぞいて、本作に直接的な銃撃・爆撃シーンは登場しない。しかし、空襲警報のような泣き声、戦車あるいは大砲のようにキャタピラ/車輪を回転させて舞台上をうごきまわる劇団「平和」の座長、集団自決を思わせるような輪になった人々など、戦火の煙は至るところで上がっていた。まっすぐな言葉が、無数の爆弾が炸裂した複雑な土壌のなかから突きあらわれることで、よりかがやいて見えること。中盤、皆で記念写真/遺影を撮る決定的なシーン(終演後のツイキャスでも劇作家本人の口から話されていたが「歴史」に対する本作のスタンスがここでは示されている)があるが、そこでもまたShootの力学が登場人物たちをつらぬいていることも見逃せない。そこで放たれる銃弾は、生者ではなく死者の手から飛びだしていく。

本作は「演劇」をギミックとして用いている。とりわけ「台本」というおおきな計画書・権力装置に力点が置かれており(そのありかたをめぐって劇中では「闘争」がおこなわれる)、それに比して「演出」はあまり問題化されることがないように思えた。これははたしていかなることを意味しているのか? 演出は演出家から役者へ、つまりは「人」から「人」へのベクトルをもつのに対し、台本は台本から役者へ、つまりは「物」から「人」へと命令(この台詞を発語せよ)を下す回路をもっている。ここで召喚されるのはティーザー映像における赤紙だ。


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Qさんの肉のない発話は肉体と霊体を転覆させる……さらにそれを逆転させる歌声……


物化したコードに対して、我々は反論することができない。無視というかたちで背くことができたとしても、その命令自体が消えることはない。だからべつのやりかたで、ひとはそれに対抗する。サラは映画という方法によって、チョビタをはじめとする教員たちは台本を書き換えることによって、自らに下された/ようとする召集令状=台本に抗うのだ。本作における台本をめぐる闘争は、賛成過多で劇団「平和」の勝利におわる。この多勢に無勢の状況、つまりは「空気」に抗うことのできない悲哀と、大政翼賛会国家総動員的「戦争」のムードは似た質感をしていると言っていいだろう。チョビタはその叶わぬだろう恋を応援したくなるよう仕向けられたドロミの対面にあたる位置に配されており、観客からのヘイトを買うようにキャラクターがつくられているように思えたが、がゆえに、この「敗戦」がより深々とした陰影を宿すのである。

あるいはここに「演劇」という集団芸術のありかたをかさねてもよい。上官と下僚の関係と、演出家と俳優の関係は、その権力構造において相似している。そうした関係性のなかで台本を自らの手中に置くことは、権力奪取の、すなわち革命の方途である(『午睡荘園』で夢見られる革命同様、これは成功しない)。だがそもそも、自らの理想の台本での上演を希望する彼らは劇団「平和」に対する「依頼者」であり、生徒を引率している「先生」たちである。こうしたねじれの関係も、複雑な土壌を形成するひとつの爆弾としてあざやかな光を散らしていた。

さて、先の問いに答えるとすれば、それは舞台上で展開されるのが「人」と「人」のドラマであるから、とわたしは言うだろう。ステージに立つにんげんがどう振る舞おうが演出的な関係は自然にあらわれてくるのだから、わざわざ主題化するまでもないということだ。そして、劇中でもっともつよく「人」と「人」の関係がむすばれるのは、親分/子分となる猿田とセレセである。終盤、猿田の望むセレセとの空襲の美しい風景の共有は、安吾が書いていた以下の記述を思いださせる。

私はB29の夜間の編隊空襲が好きだった。昼の空襲は高度が高くて良く見えないし、光も色もないので厭だった。羽田飛行場がやられたとき、黒い五六機の小型機が一機ずつゆらりと翼をひるがえして真逆様に直線をひいて降りてきた。戦争はほんとに美しい。私達はその美しさを予期することができず、戦慄の中で垣間見ることしかできないので、気付いたときには過ぎている。思わせぶりもなく、みれんげもなく、そして、戦争は豪奢であった(…)夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなっていた。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのような深い調和を感じていた。(坂口安吾「戦争と一人の女」)

戦時下におけるあらゆる思いを、一語に集約させないという抵抗の身ぶりがここにはある。猿田の見た爆撃が煌々ときらめく空は、先に述べた「空気」の多色性を象徴的に伝える光景でもある。ひとの命を奪う空襲を見て美しいと思う、そうしたにんげんの存在をかき消さないことが、ここでは謳われているのだ。劇中、それぞれが「変身」するすがたの多様も、同じく一に均されないという決意の表出とも取ることができる。そこに映ったものすべてをいちまいの印画紙の上で平面化する「写真」のなかで、レンズに向かって突きだされる二本の指。これもまさしく、Shootに対して掲げられる峻拒の手ぶりである。すベてを等しく瓦礫・死体として画一化させるものに抗うための、凸凹の徹底たる肯定と、そこに屹立する垂直の言葉。そのダイナミズムが、本作の「呼ぶにはとおく振り向くにはちかい」パースペクティブを成立させている。であるからこそ、2日連続で家畜の乳搾りを旅程に組みこむこの修学旅行のイカれ具合も、ひとつの突起として光りかがやくのだ。
 
役者についても少しだけ触れておく。たったひとりで場のトーンをつくる井上文華と、たったひとりで場にグルーヴを生みだすぬ。の両名にとくに目を惹かれた。ともに稀有な力能である。ギャグとシリアスの振り幅がおおきい排気口においては、スイッチャーとしてよりその真価が発揮されていた。また劇団員である坂本ヤマト、中村ボリはその俳優史におけるベストアクトを見た思いだった。本作における主演男優賞・主演女優賞を捧げたい。ボリに関しては前日劇場で会ったときにあまりにもボロボロの声で喋っていて心配していたのだが、ステージ上ではそのダミ声すらも猿田というキャラクターの名のもとにねじ伏せるコメディエンヌぶりを発揮していた。「顔芸」を用いて他者の発語に介入するさまは、地縛霊としての存在を場に焼きつけるさりげなくもきょうれつな方法だった。願わくば次回はそこに佐藤あきらも加えた完全版の排気口を目撃したい。

夜はいちまいの布団の上で焼鳥になるひとらをながめ、アジカンを合唱する。寝入りばな、玄関が洪水になったと怒号が聞こえる。ゴボゴボ鳴る水音を遠くで聴きながら、わたしは夢のなかに深く潜っていく。

めざめると隣に寝ているはずのHさんはおらず、キッチンで寝ているのはNさんのみで、昨日のことがすべて嘘だったかのような静まりかえりぶりだが、なんらかのカスがいちめんにとびちった絨毯を見て、あれは紛れもないげんじつだったことをしる。シャワーを浴び、でかける準備をしているとQさんが起きてきたので、いっしょに昼食を食べに行く。昨日に引き続き今日もラーメン。ひごもんず。角煮がうまい。革マルラーメンとマル特ラーメンのちがいとは。鬱蒼とした髭を生やしたマルクスがスープの底で叫んでいた。餃子まで食べてお腹いっぱい。駅で図書館に向かうQさんと別れ、千駄ヶ谷へ。原宿方面まで歩いてゆき、小雨のなかRapha、マリーエンケーファー、NIKEをめぐる。バーバッグの現物をためつすがめつし、サイクルウェアを試着し、運動しやすそうなショーツを試着する。ほしかったカラーが店頭では売り切れだったので、それぞれ通販で買う。おみやげ水族館では清水さんとモニョさんのグッズを買う。ちょうかわ。ちょうど清水さんが在庫の補充に来店し、ひさしぶりに話せたのもよかった。



グッズ、かわよかろ


西荻にてTさんと合流。四文屋で飲みつつ、制作途中のZINEの打ち合わせ。串を食べつつビールを煽っているとHさんとSさんもやってきたので河岸を変え、さらにはTさん、QさんNさんまでやってきてワイワイする。Tさんに小砂川チト『安心家庭用坑夫』を激推しされたのでゲトりたい。べつのTさんにはジュリア・デュクルノー『チタン』を観てわたしが浮かんできたというからには万難排して観なくてはならないと思う(『RAW』好きだし!)。三次会はHQハウスにて。NちゃんOさんもやってきて、Sさん発案の「Fishmans or DIE」をはじめとするクイズ大会と怖い話で夜は更けていく。静かにNちゃんの話す怖い話に耳を傾けていると、キッチンの窓のあたりに白いものがスッと降りてきたのが見え、わたしの肌は粟立ち、鳥肌の波が幾重にもなって襲いかかってきたのでひと足先にベッドに退散する。Tさんがわらいながら話すクイールのエピソードにわたしもわらいながら眠りに就く。