マリアナ海溝よりも深いヴァジャイナ

北陸の電車の肌寒さの洗礼を受ける。あまりの寒さに対面のシートに座るおじさんは自らの腕を擦りながらうわ言をうめいていた。車窓に映るのは霧をまとった霊験あらたかそうな山々と、その手前に建立されたべらぼうにデカい工場。そこで働く人間たちの通勤車両が草木のはざまに膨大に敷き詰められたさま。振りかえれば、窓の向こうに海がドカンとひろがっている。海のおおきさを表現するのに「ドカン」という擬音をつかったのは人生ではじめてかもしれない。日本海を目撃するのは云十年ぶりの気がする。太平洋ばかりを目にしてきた人生だった。いや、そもそも海には慣れ親しまずに過ごしてきた30年だった。なぜおれはそんな貴重な海側を正面に見る位置に座らなかったのか。きらめく海面を見てもこころが浮き足立たない(のかどうかはしらないが平然としたままの)地元の高校生たち、、それにしても路線名がいい。えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン。あいの風とやま鉄道。何回か乗り継ぎをし、ぶじ金沢に到着する。Oくんと現地で飲もうと話していたのだが、ながいながい移動だけですでに疲労困憊。酒を飲む体力がない。



金沢駅


休憩がてら、たのしみにしていたもりもり寿しの行列に並ぶ。と言っても店の前にはベンチがあるので座って本を読んでいるだけだ。平日夜の20時台の到着だというのに入り口前に設置してある発券機には「20組」と待ちの人数が表示されており、ラストオーダーまでに入店間に合うかなのきもちと、これだけ人気なのだからさぞかしうまいのだろうという期待がないまぜになって胸中に巻き起こる。しばらく頁をたくっていると思ったよりもはやくわたしの番号が呼ばれ(発券だけして帰ってしまうひともそれなりにいたのだった)、コロナ対策で二席一組形式になっているカウンターに着座する。閉店時間も迫っていたので、タッチパネルでガンガン寿司をたのみ、ガンガン食う。うまい。うまいのだが、値段の割には微妙というか、、あまりにも期待がでかすぎた。出発前、人生でいちばんうまい寿司を食いに行くぞ!とおれははりきっていたのだ。朝捕れ!みたいな文句がメニューに書いてあったので、夜に行ったのがわるかったか。評判高いノドグロも食べたが、あまりピンとこず。5000円払うのならもっといい寿司が食えたのでは?と会計後に思った。オーダーのしかたもしくじったのかもしれない。ウニとトロはひじょうにうまかった。まごうことなき感動的な味だった。

ふくれた腹をたずさえながらの宿までの道のり、「安倍政権の不正云々」と言いながら冊子だかビラを配っている若い女性2人組がおり、サイコーの歓迎だ!とテンションが上がった。もらわずに通り過ぎてしまった悔恨がいまだ残っている。インディペンデントな活動家のいる街はいい街に決まっている! 宿ではアメニティのつかいかたをしらないばかたれが脱衣所をびしょ濡れにしていて不快だった(翌日フロントでもらったアメニティの入ったバッグには前日はあったはずのタオルがいちまい入っていなかったので、ばかたれは宿泊客ではなくホテル側だったのかもしれない)が、それ以外は静かでよかった。

めちゃくちゃに早起きしてしまう。旅の第一の目的はカナザワ映画祭で、上映時間まではだいぶ時間があったので、どうするかなとベッドに寝っころがったまま計画を練る。近江町市場では朝早くから海鮮丼が食えるらしいとしったので、それを食べ、金沢城を散策しつつ21世紀美術館に行こうと決める。それでもまだまだ時間に余裕があり、ゴロゴログダグダして7時台に宿を出発する。まだ8時前だというのに市場はそれなりににぎわっており、もりもり寿しの前には長い行列ができていた。市場をひと通り回って入る店を決め、2500円くらいの海鮮丼を食べる。おいしくない、、そりゃこのあたりはどこもそうなのであろうが、「観光客向け」のハズレの店に入ってしまったのだった。ノドグロのあら汁は胃に染み渡った。隣の店に入ればよかった!と後悔を背負って金沢城跡へ。木漏れ日がいい感じの射しこむちいさな林があり、たのしい気分になるが、次々と羽虫が襲いかかってきて不快な気分にもなる。天守閣はないのだなと敷地内をぐるりしたのち、金沢21世紀美術館へ。受付に並ぶひとたちを眺めながら、館外に設置されている美術作品を見物する。雰囲気が十和田の現美にちょっと似ていると思った。あちらは西沢立衛、こちらはSANAAなのでさもありなん。館内も展示室をのぞいて一周し、ショップで写真集をパラパラして開映の時間を待つ。



金沢城跡の林、おれはここで行ったこともない自然教育園のことを思いだす、保坂和志「夏の終わりの林の中」の林……


上映前にロビーでSさんチームと合流し、カナザワ映画祭へ。澁谷桂一『ミラキュラスウィークエンド・エセ』(2022)。ホラー的な音響設計にまずおどろく。とりわけ窓や扉が開閉する場面での轟音は、異界からの風のように作中に吹きこんでいた。「波打ち際」の音が被さる菊地と水死体温泉さんの会話シーンが明示するように、その異界とは彼岸と此岸を分け隔てる「海」のことである。「#エーゲ海で〜す」という言葉で茶化される劇中でのその場所は、狭く暗い菊地のアパートの部屋とも、饐えて澱んだ感じのする彼の職場ともちがって、真っ白く、明るんでいる*1。より狭く、と画面の中心に向かっていく圧がスクリーンの四方から感じとれるほど「閉所的画面」への志向が匂い立つ本作(ゆえに、引き画になった際の「バーベキュー禁止」の文字が際立つ)において、画面の奥で発光する橙色と緑色の光源とともに、その白は「向こう側」の象徴として光っていた。行き場のない登場人物たちは、この暗闇と光のはざまで、紙飛行機を飛ばしたり、シャボン玉を吹いたりする。落下と上昇の力学。あるいは職場を挟む「自然」と「都市」の異なるありよう。こうした対比は運動や風景のレベルだけではなく、ポポちゃんとかおりという人物のレベルでもおこなわれる。さらには、ポーズや動作の反復もくりかえされ、次第にその「意味」ではなく、「対比」と「反復」自体が前景化していく。

さて、タイトルに冠された「ミラキュラス」とは「奇跡的」という意味だが、奇跡は反復しえないからこそ奇跡なのである(その反復をこそ奇跡と呼ぶ習いもあろうが、「その反復」が反復してしまえばそれはもう奇跡ではない)。「エセ=似而非」という奇跡に対する否定の語は、劇中でもこのようなかたちでこだましているのだ。そして、奇跡はnormalcy正常なものとの対比関係の上においてそう名づけられる。「奇跡」という現象を取り巻く概念が作品の至るところに息づいているからこそ、さらには「金曜日」が執拗に反復されるからこそ、本作に充満する閉塞(≒解放へ)の圧力はかぎりなく上昇しつづけるのだ。

劇中、複数の人物にまたがってふるまわれる行為は普遍的な報いを受ける。紙飛行機はつねに墜落の一途をたどり、シャボン玉は破砕する運命にあり、罪を犯した者は最終的に裁きを下される。そこに奇跡は介在しない。しかし、「光」を見いだすことはできるかもしれない。「命は光るんだ、人生でたった二度」。その誕生と死において生命に光が宿るのであれば、わたしたちが劇場で浴びる光もまた、同様のかがやきを持つはずだ。スクリーンに灯った映画の光、それは奇跡の名で呼ばれない。手をのばしあうことで必然的に結ばれる、「信頼」の明滅だ。その一瞬の共犯を、「奇跡的なるもの」を「拒絶する」態度を貫くことによって肯定するのが、本作という「光=映画」のありかたである。

*1:「海」に関してもう一つ付け加えておくと、劇中、かおりの写真が挟まっている本は秋亜綺羅の第1詩集『海!ひっくり返れ!おきあがりこぼし!』であり、この書名に宿る対極的なベクトルは本作にも根を張っている。