おはようデスゲーム

NIAVへ行く。思っていたよりもちいさく、しかし雰囲気は抜群だった。場所と構成の変化によって展示の印象も様変わりしていて、より「地域アート」の様相が前面化していたように思う。ところで、廃校を再利用する際に「アート」が召喚されるのはなぜなのだろうか? 3331、中之条ビエンナーレ、岡山芸術交流……あらゆる地域の廃校はアートの衣をその身に纏う。つづいてFTMGにも行く。そのこぢんまりさに温かみと品格が宿っていてよかった。暑さはやばかったが。

灼熱。森。夏。日に焼けた肌がポロポロとこぼれはじめてきた。

夜、冷やし中華。具は卵きゅうりチャーシュー。うまい。

夜、鶏椎茸茄子玉ねぎの炒め煮。うまい。

夜、茹で枝豆、ほたるいかの刺身、ほたるいかの辛子酢味噌、ハルーミチーズ、納豆、昨日ののこり。うまい。

夜、鯖カレー。鯖の味噌煮、トマト缶、茄子、ピーマン、玉ねぎを赤缶、生姜、にんにく、クミン、カルダモン、クローブターメリック、カイエンペパー、塩胡椒で煮る。牛乳、醤油、ウェイパーも入れる。うまい。天才。

東京帰りはほぼ鬱になる。とてつもない生の落差を感じるからだ。金沢行きの計画を考えているときだけ元気になれる。寿司、寿司、寿司……。ただただ家族のごはんつくるマシーンになっている。上記の夜のどこかで舞城王太郎阿修羅ガール』末尾の短編「川を泳いで渡る蛇」を読む。メタファー小説を読むちからも根気もわたしにはないので本編の方が好き(本編がメタファー小説ではないという意味ではない)!と思った。ちまたの評判を見ていると逆パターンのひともけっこうおり、たのしいきもちになった。ここでたのしくなるときと、たのしくならないときのちがいはなんだろうか? わたしが読めていないと思うときと、読めていると思うときのちがいだろうか?



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うさぎストライプ『みんなしねばいいのにⅡ』(2021)、映像で観る。あるひとつのカタストロフの渦中で生きる人々の群像、というこしらえは範宙遊泳の『うまれてないからまだしねない』(2014)を思いだした(「死」というモチーフといい、漢字のひらきかたといい、タイトルも似た方向だ)。ダンスを映像で観て、生で観たい!と思ったことはあるが、演劇を映像で観てそうなったことはいちどもないのかもしれない、などと観おえてから思った。つまらないとは思わず、途中で止めることなくさいごまで観はしたが、『うまれて〜』のほうがよく出来ている。スケールの差、集約的な台詞の性質の差だろうか? コンビニ店員と看護師の演技はとてもよかった。

バイス最終50話。戦闘前、一輝とバイスのあいだに一本の木を配することによってふたりの分割を明示し、決着後、バイスが消えてしまう直前には同一のフレーム内に一体となるようふたりを置いて融和を指し示し、さらには消失直後のショットでは分割線となる街灯を一輝の横に置いて空白のスペースを画面に設ける、という画の流れはよかった。が、ストーリー自体の空回り感は否めなく、前半の期待から考えるとどうしてこうなった、、と落胆する最終回だった。このあかるい/かなしい闘いにちゃんとノれるような作劇、これまでほんとうにしてきたのかよ。唐突に登場するキングカズに感動できるような話の語りかたをしてきたのかよ。バイスがいなくなってしまったあとのシーンで、一輝がバイスの声優である木村昴とサッカーをプレーする場面があるのはおもしろかった。

ドンブラ26-27話。26話はいきなりリバイス最終話のふりかえり(映像付!)でスタートする自由っぷり。その「ふりかえり」を受けての「総集編」回、というつなぎも巧み。各人の視点からこれまでの話を振り返る構成となっているが、どんぶらマスターの語りの際にゼンカイジャーまで引っ張ってくる型破りの作劇はほんとうに魅力的だ。27話のスーツのままプールに入るソノイさんや、配達シーンにおけるホーンアレンジでのOPインストもよかった。なんかもはやマジで仲がいいよなノートとドンブラズ。

ギーツ1話。微妙。ざんねんながら、おもしろそう!とはならなかった。次回ライダーとなることが予告された新入社員男性の心のうごきが謎すぎる。ギーツの変身ギミックはカッコよかった。

肝が冷える、というよりも胃が爛れるような出来事がある。マジで勘弁してほしい。おれの健康を奪わないで。さらにはこれが1回きりでないことが予告されており、地獄のような気分。おれはぜんぜん回復していないのだということがわかった。おれの弱い心につけこむような真似をしないで。いま具体的に書くことができないこの問題も、いつかは書けるようになると思って堪え忍んでいく。

夜、豆腐とわかめの味噌汁。惣菜類がたくさんあったので椀ものだけ。遅れてわたしが食べる頃には惣菜類は壊滅していたのでそせじチーズ目玉焼き+キムチ+焼海苔で食べる。うまい。