みじめなステップ、はじめのジャンプ

同人会議。次号の刊行日、〆切、テーマなどが決まる。10号記念ということで、新たな企画もやる予定なのでおたのしみに!


▼われわれはこのような同人誌をやっている、年4回程度刊行中……
vvvkeikaku.tumblr.com


雑談の時間がこのようにして定期的にあるのはよいことだ。なぜなら、日常的にひとと接する生活を送っていないので、、そして、ひとと接したとしてもカルチャー的会話になることは少ないため、、

というか、十全に自分がカルチャーの話ができる場なんてものが人生において存在しうるのか?

この十全という感覚、たとえばわたしがフリーランスになってから、自らの力能を遺憾なく発揮できたワークなんてひとつもないのかもと思っている。手を抜いているとか、心残りがあるとか、そういうことではなく、自分はこれとこれとこれとこれと……ができるのに、そのすべてをひきだす必要があるワークに関わることができていないという実感。そんなものだろうか。

ふたりはプリキュアMaxHeart22-23話。22話はvs.バルデス回。通知表を渡されたなぎさの鼻の穴の描写に並々ならぬこだわりを感じる。コミカルさをいかにしてだしていくかの姿勢。そんな明るさとは対照的に、それぞれに配られた通知表をめぐる会話をタコカフェにておこなう場面では、その内容は楽しげであるのに、なぎさ・ほのか・ひかりの3人がつねに日陰にいるという演出法が取られている。強敵バルデス戦につながる不穏さの兆しである。それが、マーブルスクリューを打ち消し、エクストリームルミナリオも相打ち状態にするという強大さを準備するものとして画面に敷かれているのである。

それを受けてさあどうするかと話しあう場面、インテリジェンによる助言をもとに新しいちからが隠された場所を探ることになるのだが、その地を示す「ふたつの太陽」というキーワードがでる前に、ほのかの家の庭にある手水鉢のカットを差し入れる小粋さが憎い。そのちいさな水面には、夕暮れが映りこんでいる。

23話、続・バルデス戦。パワーアップ回でもある。前話で触れられた隠された場所をめぐるやりとりのなかで、インテリジェンの語る「獅子」というワードを「猪」と勘違いし、さらにはここに「ライオン」がいるの!?とボケをかますなぎさに対してそれを拾わないほのかがいい。もう慣れたもんよ、という空気感。滝が逆流して干上がったところにバルデスがあらわれるという、敵の登場のしかたがカッコよかった。往年のスーパーロボットみたいなノリ。虹の園の声に応えるようにして発される「私たちは絶対に負けない!」というブラック&ホワイトの台詞がアツく、さらにはOPの爆煙飛びだしカットまでがあらわれて、節目感があった。

ワーク。今日は軽い感じでおわらす。

夜、大根煮。チキンストックで煮たが、それだけでは味がしみなかったので、昆布と本だしを追加して寝かせる。今日のところはついでに茹でたそせじと、昨日のあまりで食べる。うまい。



Fの円盤、特典がふっかつしていて、そんな予定があるなら先に言ってくれ〜とほかのサイトで注文してしまったおれは嘆くのだった。

ひろプリ特集のアニメージュをちまちま読みすすめている。ぎゅうぎゅうの行間で組まれたみっちりした誌面なので、情報量がすごい。インタビュアーがちゃんとプリキュアが好きなひとなのがいい。熱量がある。

ニコラス・ローグ『赤い影』(1973)。原作はデュ・モーリア。水たまりに雨が降り注ぐ1stカットから不穏である。これは冒頭に溺死する娘の死地をあらかじめ告げるものでもあり、画面に水面や雨が映るたびに不吉さをかもしだすためのあしらいでもある(本作の舞台はヴェニスであり、水はよく画面にあらわれる)。原題は『Don't Look Now』だが、邦題が効いていて、赤いカッパを着た娘が赤いおもちゃを拾っていくオープニングシークエンスから発揮される「赤」へのこだわりが作品の底にずっと敷かれてあり、鑑賞中、水と同様に画面のなかのその色が観客に「何かが起こるのではないか?」という予感を植えつけつづけることになる。

ものを投げるアクションによってふたつの場をつないだり、絶叫と掘削機の爆音というサウンドによってカットをむすんだり、酒をもつ手という同じ絵面によってカットを切り替えたりと、無数のバリエーションによっておこなわれる編集の方途にもかなり惹かれた。それなりの尺を割いて描かれる夫婦のセックスシーンにおいて、その行為と行為のはざまに「でかける準備-着替え」のカットを差しこんでいくカットワークも、かなり異様で「なんだこれは?!」とおもしろく観た。しんみりとしたBGMがかかっているのもヘンテコである。最後の愛ということか。

画面の色彩の感じが東欧のムードがあり、ズラウスキーみを感じたりもした(『夜の第三部分』とか?)。これは画面だけに言えることではなく、夫婦の問題を扱っているという点でも一致する。また、子供を亡くした母が霊媒に近接するというフォーマットは『ヘレディタリー』の影響元だ!とテンションが上がったりもした。ところで、『ビヨンド』にも見られていた「(なにかしらの能力をもった)目の見えない女」の表象はどこに震源があるのだろうか。

葬列のシーンがラストに置かれているが、かなりゾッとする「死」からの転換のすばやさ、また音楽の過剰さが、悲嘆ではなく滑稽の方に傾いていて、そのバランスもふしぎである。また、通常こうした映画では「女」が物語のために死ぬことが多いが、「男が死ぬ」映画である点もかなり先鋭的なのではないかと製作年を鑑みて思った。かなり好きな映画だった。ただ、U-NEXTで観ていたのだが、たびたび読み込み中になってまともに観れなかったのがマイナス(作品とはまったく関係がない!)。


▼『夜の第三部分』の感想
seimeikatsudou.hatenablog.com


▼『ビヨンド』の感想
seimeikatsudou.hatenablog.com