草の上で触れあって痛い

思いだし。過日、初対面のひととの会話のなかで何座ですか?と問われる機会があった。星座を尋ねられるなんて何年ぶりなんだ? いやそもそもそんな会話をこれまでしたことがあったか?と自己の人生をふりかえると同時に、星座をめぐる会話は、日常的でありながらもロマンチックなやりとりだなと思うのだった。星座占いという俗の象徴のようなものに含まれている、星そのものがもつ詩情。

昼、昨日のあまりにカレー粉とカイエンペパーをかけてキーマカレー。うまい。

引き続き胃が痛いが、その原因をひとつずつつぶしていく作業。遅延しつつもなんとかやりおえる。

夜、大根とわかめの味噌汁、豚と白菜のジーマー豆乳煮。うまい。

ワークしつつ、アジカンベスト11-20の選考。ピロウズバックホーン→アジカンとやってきて思ったのは、前者ふたつ(とくにバックホーン)が「全盛期」の曲に偏るのに対して、後者は新しい曲もそれなりに高順位にやってくるということである。めちゃくちゃすごいことだ。

ワークもよくすすむ。重い心がまた多少よくなる。

愛読していたブログの更新が途絶えがちになり、アクセスするたびに更新されなくなってざんねんだと思っていたらいつの間にか更新が再開されている! よろこび!

ブログといえば、まいにち更新になって、一記事あたりの文量が多いのではないかと思いはじめた。かといって、修正するにもあと数記事でまいにち更新期間はおわってしまうわけで、再来月はそのあたりを調整したほうがいいのでは思った。挿絵(?)のストックが切れそうになることも学んだ。これを書いている時点でまだ5日目とかだというのに、もう尻に火がつくほどの予備のなさ。どうしよう。

KADOKAWAのトランス差別本の出版中止と、集英社パワハラ漫画家自殺がタイムラインにあがっていて、どっちもクソだと思うわけだが、意外とここを両立するひとは少ないのかもしれない。トランス差別はクソであり、出版中止もクソであり、パワハラもクソであるというライン(出版推進運動や反対運動はクソではない)。

編集者・出版人としての矜持の話か。

訃報に対する無数の情念の吐露を見るに、ひとが個人としてひとの死に向きあうのは、SNSのあるいま、不可能なのかもしれない。前にもこんなことを書いた気がする。少なくとも思った。

アジカンベスト11-20編みおえる。そういう並びになるんだなあという自分での発見もある。



m-1の予選、今年はじめてしったなかでは忘れる。というコンビがおもしろかった。

「ノー・ディベート」に関してくわしく書いた本ってないのだろうか。いまだ納得できる説明に触れたことがない。ホロコーストはなかった、南京大虐殺はなかったみたいな、そういう言説につきあわないというのはわかる気がするが、対話を拒否する姿勢が(被差別者を守ることにつながっても)差別の撤廃に役立つとはとうてい思えない。改良派と革命派のちがいみたいな。

夜、鯖の塩焼き、ベーコンキャベツエッグ、明太子。うまい。

ラジオ。企画放送の補遺ということで先週できなかった本の話をする。ひと枠では用意していた10冊語りきることができず、ベスト10の語りこぼしだけで今月は乗り切れそうだという気になる。

プリキュア20thライブ落選の報。つらい。そもそも映画先行で申しこもうと思っていたのに、わたしが映画館に行った時期にはすでに専用用紙(?)の配布がおわっていたのだった……

夜、モッツァレラチーズとハムのガーリック醤油炒め、レンコンとキャベツとハンバーグの和風煮込み、明太子マヨ。うまい。

伊藤計劃『ハーモニー』読みおえる。おもちれー。映画の20倍はおもしろい。生政治的思考のさくれつ。映画を観たときにどう思ったのかは忘れてしまったが、冒頭に置かれたすこし面喰らう以下のミァハの宣言も、読んでいくとなんでこうした語が選ばれているのか納得できるつくりになっていて、ところどころ挟まれるパロディ的文体のくずれもそうだが、俗っぽさの扱いがうまい!となるのだった。

「わたしたちはおとなにならない、って一緒に宣言するの。





 ぜんぶわたし自身のものなんだって、世界に向けて静かにどなりつけてやるのよ」

ここで羅列されているものは、かつてミァハがその身を置いていた、しかし作中での具体的な描写はかなり最小限にされている環境と深い関係をむすぶもので、その境遇に思いを馳せるに、こうした語句が選定されるのはそういう理由づけがあってか、と理解できるようになっている。これはetml(Emotion-in-Text Markup Language)を用いた本文の形式にも同様のことがいえ、SF的リアリティとはこのようにしてかたちづくられるんだなとあまりSFに触れてこなかったわたしなどは感心するのだった(書き写していて、いっときhtmlタグ風のギミックをもちいた詩が流行っていた(のか?)のは伊藤計劃の影響もあったりするんだろうか?と思った、が、べつに彼が先駆者ではないか)。

この文章を書くために付箋を貼った箇所を再読していると、どうもその文体や物語に心を打たれてそれを貼ったのではなく、先に描いた「生政治的思考のさくれつ」を感じた場所に貼っているという特徴が感じられ、それらを写していってもなという気分になるのだった。それらを物語のかたちに落としこむ技量はすばらしい。しかし、それを引いて感想を書くのは説明みたいでおもしろくない。その実装の秀逸さだって、付箋の箇所だけ引いてもわかりにくいだろう。人文系の本ならそういうやり方でもいいのだが、、だから、そうした部分についてはラジオで話す。たぶん。

ほか、「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない」というミァハの台詞には前作『虐殺器官』への直接的な目配せを感じてグッときたり、大学時代に読んでいた坂口安吾の「親があっても子は育つ」が引用される場面でそんなところも!と思ったりもした。


▼文句ばかり言ってる映画の感想
seimeikatsudou.hatenablog.com