夜のかけっこ

無意味さ・無用さを支持する立場ではあるが、家庭内で何もしない父親をけっして擁護することはできない。これはバートルビー的なものの否定でもない。自律的共同体と他律的共同体のちがい?

ワークワーク。来月のスケジュールを考えるに、いまのうちにやれることはやっておかないとまずくなりそうな気がしているので先回りしていろいろやっていく。正規表現スタイルの理解が完璧でないのが足をひっぱっている。すべてをそこで処理しようとしなければぜんぜんいまのままでもいいのだが、いちいち手作業でやる手間を省ける技術があるのにつかわないのは頓馬である。これまでに効率化をサボっていた(「効率化をサボっていた」! すごい表現だがその通りなのであった)ツケを払わされている。

夜、トマトハンバーグ(レトルト)、キャベツとぎょにその味覇炒め。うまい。

ワーク。まあそれなりに簡略化できたかな、というところで力尽きる。

dqm3が発売したがどうしよう。購入を迷っている。買ってもどうせしばらく積むのが目に見えているのだから買うな!とぼく。いや、ひさびさのドラクエモンスターズナンバリングタイトルだぞ!買え!とまたもぼく。

ひろプリ43話。バッタモンダー-紋田決着回。引き画の多さが特徴的。木を境界線にしたましろん/紋田の分断ショットもプリキュアではよくみられる作法だが、こうしたふだんの回と異なる演出は、敵サイドの掘り下げという過去作に比べて今作では比重の少ない点に焦点を当てる今話のストーリーラインとも連動していると思った。いつもとちがうことを、話だけではなく、演出の方面からも伝達すること。能力主義的規範によって律されるアンダーグ帝国と、それに対して「自分の価値は自分で決める」と啖呵を切るましろん。そうしたやりとりがなされるバトルのあとで、ましろんの描いた絵本が大賞を受賞するという流れに疑義を挟んでいるひとをついったで見かけたが、彼女はべつに賞によって自身(-絵本)のアイデンティティを形成しているわけではないので、いいのではと思った。脚本は井上美緒。絵コンテは河原龍太(デパプリでもよいしごとをしていた!)、演出は岩井隆央。 EDキュアはプリズム。

朝、中華ちまき(冷食)、トマキャベハムスープ。うまい。



ひろプリ感謝祭のビジュが発表されていた。まいねんそうだが、このビジュアルにこめられた別れの空気感がすごすぎる。キャラクター同士の離別は、視聴者である子供たちと番組の別れ、さらには卒園をめぐる友人や先生たちとの別れにもつながり、むろん、プリキュアシリーズからの卒業にまで通じている。

わたしの陥る冬季うつの一因として父親の存在がある。あたたかい季節には基本的に釣りに行っているので土日は夜まで家にいないことが多いが、冬場はシーズンがおわって家に居座る時間が多くなり、家事を何ひとつせずに居間のソファに寝ころがり、クロームキャストしたテレビでゆーちゅーぶ(大音量)を見ているのがかなりキツいものとしてわたしの目に映っている。だから、自衛のために土日は自室にこもりがちになる(ニャンの存在が救い)。

わたしが東京にでる前はこのような感情は抱かれていなく、この嫌悪の感情には向こうで触れることになったフェミニズムの影響が大きくあると感じている。差別をなくす運動は一見「平等」を目指すものに思えるが、それは同時に「分断」を押しすすめるものなのかもしれないとこのようにして実感される(反差別運動のまわりで生じている無数の諍いを見よ)。

夜、生牡蠣三杯酢漬け、塩蒸し牡蠣、ガリバタ焼き牡蠣。うまい。歳暮の三陸産生牡蠣を三様に。蒸した際にでたエキスと、焼き牡蠣のあまりで明日は炒飯をつくる!のきもちで寝る(目覚めたらフライパンが洗われてしまっていてかなしかった!

ニャンがずっとわたしの布団のなかで寝ている。半日間、いちども起きずにびよよとのびているので心配になる。

精神の負担となるような連絡が相次いであり、だいぶ削られる。ひさびさのこういうタイプのつらさ。胃が痛い。助けてくれ。そんなことを叫んでもだれも助けてくれないので、ひとつひとつ片づけていくしかない。

オトプリ9話。咲舞満薫回。電話を取らないことでプリキュアよりもパンを取っていることを画で語る演出はよかった。ベルはCCAのシャアだよねーという感じだがそんなことを言っているひとは自分の観測範囲では見当たらなかった。

夜、ひき肉とキャベツとモッツァレラのトマトソース炒め、牡蠣ライス。うまい。牡蠣ライスは昨日の焼き牡蠣のあまりと、牡蠣を蒸した際にでたエキスをつかって。トマトソースの入った袋に包丁を差し入れた際、人体を刺す感触もこんなものなのだろうかとその手応えのなさを以て想像がのび、いくぶんきもちが晴れた。ひとはこういうわけのわからない回路を伝って回復したりする。