美味玉袋小路

クレイグ・ガレスピー『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』(2017)。公開当時のフライヤーの、マーゴット・ロビーが脚をひらいて太々しく座るメインヴィジュアルが好きで、観に行こうと思いながらも観のがしていた作品。ドキュメンタリー風の導入を見てわたしのあたまによぎったのは『アメリカン・アニマルズ』(バート・レイトン、2018)で、当時はこういう演出が流行っていたのだろうか? 見ていてたのしいとは思うのだが、作品自体はそうでもなかった記憶があり、本作ははたして、と観ていったが正直なところあまりひびいてこなかった。べつにわるかったわけではなく、『アメリカン〜』よりは好きだったが、メインヴィジュアルの期待を超えてくれはしなかったということだ。

同じくドキュメンタリー的(というよりメタ的?)演出として、登場人物たちがカメラに向かって話しかけるアクションが散見され、それらの多くが暴力シーンにおいておこなわれていたのが印象的だった。親から子へ、もしくは、恋人から恋人へふるわれる、流血も辞さないその苛烈なドメスティックバイオレンスを、いちまい上のレイヤーから物語ることによって茶化してみせているのである。おもしろい試みだと思った。直接的な暴力シーンではないが、トーニャの母親がおこなった食べかけの料理で煙草の火をもみ消す動作にはハネケが紙幣をトイレに流させた(『セブンス・コンチネント』1989)ようなショックさがあり、そこからナイフぶん投げに接続させる流れも華麗だった。この親から子に対するアクションは、やがてナイフをスケートシューズに変更して(教え)子からコーチへと反復されることとなり、家族という再生産装置の強靭さを描くことに成功している。

家族……。トーニャの演技によい点をつけない審査員が彼女に足りないものとして語るのは「a wholesome American family(完璧なアメリカの家族)」であり、その欠落こそが彼女を陥穽に落としこむ要因のひとつといっても過言ではない。おそらくは低賃金であろう安そうなレストランのウェイトレスとしてはたらき、稼いだ金をすべて娘-トーニャ-フィギュアスケートに注ぎこんだと娘本人にさえ語る母親は、なによりもまず暴力によって彼女を支配している。いっしょに兎狩りに行き、手づくりの毛皮のコートをつくってくれた父親は、「わたしも連れて行って!」と泣きつく幼少期のトーニャを置いて家をでていき、いっときは心の支えとなった恋人のジェフも、すぐさまDV野郎であることが露呈することとなる(おたがいポケットに手をつっこんだままするさいしょのキスの幸福感は、いともたやすく殴打に書き換えられる、そう、暴力を為す「両手」はここではまだ布のうちに隠されていた……)。そんな彼もまた貧乏な家庭出身であることが早々に明かされるのだが、そうした階級の問題が本作には横たわっており、下層の家庭環境が生むよどみが暴力となって噴出していくのが本作のとる道筋である。まったく完璧ではないアメリカの家族……。

また本作には、もうひと組、触れておかねばならないだろう家族が登場する。ジェフの相棒であり、ホラ吹きボンクラ非モテ童貞のショーンと、彼をそばにおいたまま、溺愛しているであろうその両親である。劇中、実家暮らしであることもろともトーニャに罵倒されるシーンがあり、そのふくよかな(アメリカン)ボディとともに観客の脳内に記憶される彼は、いわゆる「弱者男性」であり、アメリカ風に言えば「インセル」である。そんな彼が、「史上最大のスキャンダル」に際して言い放つのは「歴史を変えてやった!」という快哉の叫びである。自らを対テロ専門家の国際的な諜報員であると豪語する彼が、おそらくはこれまでに経験したことのなかったであろう「成功体験」を、自身主導のもとに達成することができたというよろこび。そのまちがった歩みと、それまでの薄暗い人生を慮るに、胸を抉られるような気分になった。数々の成功によって彩られた「フィギュアスケート」のみが自身にとっての人生であり、「史上最大のスキャンダル」によって奈落へと叩き落とされることとなるトーニャとの対比構造がここにはある。このよくできたコントラストと、あまりのボンクラなキャラクターに、多少は脚色しているのだろうと思ってながめていたのだが、エンドクレジット中に登場する本人はまさに劇中のショーンと同様のにんげんで、めちゃくちゃわらってしまった(劇中同様個性的なメガネをかけているトーニャの母親にもウケる)。

作中、もっとも心をうごかされたのは、オリンピックでの演技を前に、鏡に向かってトーニャがメイクアップをするシーン。顔そのものが感情となり、喜哀の極点が筋肉の運動とメイクの過程とともに浮かび上がる、心底すばらしいショットだった。マーゴット・ロビーの卓越を感じた。また、作品の末尾では、エピローグ的にトーニャのその後の転身が描かれるが、ボクサーとなった彼女がパンチをもらった際のリング上での回転と、氷上でのトリプルアクセルの回転をシンクロナイズさせるというカットさばきにもしびれた。

「あまりひびいてこなかった」と書いたわりにはめちゃひびいているのでは?という感想になった。そのずれがおもしろいと書きおえてから思った。



落書きが間に合わないのでしばらくグラフィックをあげていきます、これは2021年の春ごろにつくったものです


ハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン『隣の影』(2017)。アイスランド映画である。わたしの好きな映画監督にフリドリック・トール・フリドリクソンがいるが、彼もまたアイスランドの作家である。系統としては、同じくアイスランド出身のフリーヌル・パルマソン『ホワイト、ホワイト・デイ』(2019)の不穏さを思いだした。本作もまた、フライヤーは手にしたものの、観のがしてしまっていた作品のひとつである。

本作の秀でた点として、ダニエル・ビャルナソンが手がける音楽がある。『ラブレス』(2017、アンドレイ・ズビャギンツェフ)におけるガルペリン兄弟のサウンドトラックを彷彿とさせるような、不穏さを体現するその音楽が多く鳴らされるのは、カットとカットの切り替わるタイミングにおいてである。どういうことか。本作のモチーフとなっているのは「隣人トラブル」である。この音楽の使用法は、つまるところ、音こそが「隣」との境界を真っ先に打ち破るものであるということを宣言するものである。と書いたが、本作のなかでそうぜつなトラブルのエスカレーションをみせるふたつの家のあいだで問題になるのは「音」以外ばかりである(もうひとつの家-集合住宅では「音」が住民会議で問題として挙げられる)。そして、さいしょに問題として提示されるのは「光」である、光と音、つまりは映画……。

また、「妊婦」や「自転車」などの物語に起伏を生みだすちいさな要素をさまざまな場面にちりばめるのも本作の特徴で、そうした配置の妙が、「真相」を明示しない演出法と噛みあって、映画にゆたかな奥行きを生じさせているよう感じられた。自らの娘が世話になっている保育士の名前を意図せずににどもまちがえる父親など、キャラクターの造形を彫琢する技術も冴えている。

『アイ,トーニャ〜』でマーゴット・ロビーの顔の演技に心をうごかされたと書いたが、本作にも「いい顔」があり、それは先に触れた「父親」が木につぶされて(本作の原題を英訳すると「Under the Tree」となる、先に触れた「光」の問題もこの「木」によってもたらされる)病院送りになった帰り道、彼の老父がタクシーのなかで浮かべている血走った顔である。この血走りはまさしくげんじつに血を走らせる跳躍板となり、「隣人トラブル」は殺し合いにまで発展する、ということを観客はまざまざと見せつけられることになる。そこではちゃんと(?)死人のでるバトルシーンがくりひろげられるのだが、とうとうこんなことにまで、という流れになんだか『ゼイリブ』(1988、ジョン・カーペンター)の殴り合いシーンを思いだしてしまって、血がバンバン流れるのにもかまわずにわたしは爆笑してしまっていた。前記事で触れた『地獄の警備員』(1992、黒沢清)でもそうだったが、やっぱり滑稽さと深刻さは紙一重であるからこそおもしろいのだ!

何より衝撃的だったのは、バチバチな隣人同士のうちの片一方の家で飼われているシェパード犬・アスクルが迎えることになる末路で、ちょっとちがうのだが、『恐怖のセンセイ』(2019、ライリー・スターンズ)のダックスフントがシェパードになってしまうくだりを思いだした。あっちにはまだわらいが伴っていたように思ったが、こちらはヒエッと悲鳴をだしてしまいそうになるおそろしさがあり、かなり忘れがたいエピソードとして胸にのこっている。


▼『恐怖のセンセイ』に触れた記事
seimeikatsudou.hatenablog.com


夜、チキンカツ煮、昨日のあまり。きゅうりのピクルスものせつつ、丼にして食べる。うまい。