恋してみるから複製技術

すずしい季節がまちがいなくやってきている! 外からひびいてくる無数の虫たちの鳴く音色! ニャンたちが布団にもぐりこんでくる季節!

夜、牛肉・たけのこ・玉ねぎ・でかにんにくのオイスターソース炒め。うまい。

民衆暴力からの流れで読みさしてあった山本直樹『定本 レッド』1巻にふたたび手をのばす。読みおえる。おもちれーー。登場人物の名前と顔が700頁以上読んでもなかなか一致してくれないが、それも作品のひとつの意図として好意的に受け止めている(単にわたしの目の問題と言われたらそれまで)。彼/彼女らもわれわれと同様の存在である、という匿名性の発露。帯に「青春と革命の最期を描いた」とあるように、革命とは青春の別名なのだと、つよく実感する。青春に恋はつきものだが、恋愛感情こそがドラマをつくるのだという、富野作品を観て思ったことがここでも思いかえされる。

自身のデザインしたフライヤーに対してのある言及を読み、将来のわたしはこのことをこのフライヤーを思いだすたびに思いだすだろうと思った。

ひろプリ34話。バッタモンダー=紋田再登場回。ちがうアニメがはじまったのか?と一瞬思わせるほどディティールに気合の入った(ゴキブリまでが壁を走っている!)ボロアパートの、隣室同士に住むカバトンとバッタモンダーの描写がウケる。夜勤明けのカバトンに、頭脳派であることをとうとうとひとりごちながら交通誘導員という肉体労働に勤しむバッタモンダー。ランボーグよりもパワーアップしたキョーボーグの登場回でもあるが、そのインパクトはコメディ描写に比べてきわめてちいさく、「演出 土田豊」のクレジットを見てひどく納得するのだった。ましろんの描いた絵本および本人による読み聞かせに対して、「つまらない」と言い放って去っていく子供たちを登場させ、ものをつくり、発表することの「きびしさ」を妥協なく描く成田良美の脚本も、だいぶ彼の手によっておもしろさのほうにころんでいたのではないか(ラストカットのましろんのポーズ! そうした茶目っ気があるからこそ、「きびしさ」もユーモアのヴェールをかけられて子供たちのもとにまでとどきうる)? 「蝶々ですよ!」とエルちゃんに得意げに語るソラに対して、あげはの口から淡々と放たれる「それは蛾だよ」の切れ味も冴えていた。

リコロイ。ミブリム回。自分にとってはSVではじめて目にしたポケモンだが、やっぱりかわいいね。ブリムオンまでちゃんと育成したんだ。ミブリムの過剰なエンパシー能力の演出のためであろう、「諍いの火花がちりはじめたそれぞれオレンジジュースをもつオリオとマードックの手」だけを映したカットがひじょうに不気味でよかった。

夜、モロヘイヤと豆腐のつゆ、麻婆茄子。うまい。米が切れかけていたのでそばもゆでておく。



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廣瀬純+コレクティボ・シトゥアシオネス『闘争のアサンブレア』読みはじめる。今年の秋は読書の秋にするぞのマインドが自分にしてはよくはたらいている。にんげんにあつみをもたらすのは本である。深みをもたらすのはにんげんとのかかわりである。ほんとうだろうか? 単に流れで書いただけである。

ひとまず第2章まで。ここで言われている「アサンブレア(都市住民たちによる近隣住民集会)」の試みはたとえばフェミニズムでいう「コンシャスネス・レイジング(グループ対話による意識向上)」とも通じあうもので、自分に引きつけて言えば、ダイアログで試みようとしていたことではないのか?とかつての実践(?)を思いかえしたりした。で、これは『レッド』のなかでの、つまりはかつての日本の左翼運動のなかでも、とまで書いたところでいや、「近隣住民」と「活動家による閉じたコミュニティ」ではだいぶ距離があるのではと思いなおした。わたしが問題にしたいのは、そこに共通してある「場」ということだ。

山本直樹『定本 レッド』2巻読む。山岳ベースでの共同軍事訓練最終日、北がかつて自身が逃亡したことを泣きながら自白し、みなのボルテージが高潮して「インターナショナルを歌おう!」となるシーン、爆笑してしまった。「お母さんを幸せにするために革命に加わった」と語る天城に対して「そんなのセンチメンタリズムや」とつっこむ北、おまえがいちばんのセンチメンタリストだよ。

先に触れたアサンブレアなどの話、しかし「総括」だの「自己批判」だのとも紙一重のものとも思え、なんでこう隘路へと向かってしまったのかとつらいきもちになる。

しかし「定本」としてだしているのだから、誤字をなくすよう編集者にはがんばってほしかった(結構/決行、非難/避難)。

3巻。がんばれ!がんばれ!となみだを流しながら声を張り上げ、「総括」としての殴りあいを応援する若き活動家たち。もはやギャグにしか見えない。この滑稽さは迫真であるからこそかがやきを放っている。同じくがんばれ!がんばれ!と絶叫しながら、「総括」として同志の死体を埋める役目を果たさんとする仲間を応援するすがたはもはや狂気の域である。なんでこんなことになってしまったんだ。突き抜けた悲惨は喜劇に転倒する。

薬師の死体を埋める際に飛びだす「こいつは死んでも反革命の顔をしている」、なんちゅう台詞なんだ。これが史実なのだからすさまじすぎる。