冬毛のスポーツカー

森達也『A』(1998)。オウム真理教を題材にしたドキュメンタリー。「撮る暴力」の刻印がすごいが、オウムを取材しにきたカメラマンが着ているスウェットに印字されている「BROTHER MOTHER HAIR LOLITA LEGS FAT」にわらってしまった。決定的なものを撮っているという認識が、その文字列から浮き上がってくるようであった(決定的といえば導入となる過剰なBGM演出もウケる「転び公妨」シーンも相当なきょうれつさである、公権力のゴミさがはっきりとそこには映っている)。オウムの面々に問答無用でカメラを向けるマスコミにも森はカメラを向けるわけだが、そこに際立つのは森のオウムへの取り入りかたのすさまじさである。そこに信頼がなければこうした映像はけっして撮ることができないだろう。同時に、画面に映る圧倒的なオウムに対する「否」の表象に、逆説的に森はえらい!というきもちにもなる。この作品がのこされていることは、後世を生きるわたしたちにとっておおきな遺産であると思った。統一教会バッシングのじっさいをわたしはしらないが、本作が最低限踏まえられるべき前提のひとつであることは疑いようがない。しかしそうは言ってもひとは感情でうごく。本作のなかで街頭でオウム廃絶を絶叫する1人デモばあさんの迫真さをわたしはけっして滑稽なものとは思えない。このひとは本気で怒っている。そう思わされる生々しさが画面に、音声に、宿っていた。

主人公として据えられる荒木広報部長に対する「女性の手をにぎったことはありますか?」「性体験は?」の質問、そしてその答えとしての「おそらくないでしょう」。逡巡の末に発される「おそらく」の語におれはつよく共振する。「荒木浩さん個人」を応援する、オウムへの破防法適用に反対するタスキを胸にかけた一橋大学の良心的な女学生との交流にこころが暖かくなる。麻原三女の入学を拒否したわたしの母校のおえらがたに彼女たちの爪垢を煎じて飲ませてやりたい。本作にアーチャリーは登場しないが、会見の場に傀儡として前に立たされているのであろうまだ10代後半の麻原長女の言動はほほえましいものとしてわたしの目に映った。「調子のいいときはピアノの端から端まで声がでる」と尊師の声域について語る信者のすがただったり、壁をうろちょろするネズミの寄りのショットから引いていくとサティアンの内部だったりするユーモアのまぶしかたがいいのも本作の特徴だろう。

最終盤の森と荒木の問答において、荒木の眼鏡に「映り込み」が映っている演出・画づくりには唸らされた。オウムに対する社会の要請を問われた荒木は主に沈思によってそれに答えるが、彼の視界にはオウムという「色眼鏡」がかかってあり、「もう一つの風景」がつねに映しだされていることを画によって語っているのである。ドキュメンタリー映画における両輪がしっかりと合致したいい作品だった。

夜、オニオンコーンスープ、豚ニラネギエリンギ炒めオイスタージンジャー味。うまい。

捨てる神あれば拾う神あり、という言がこれまで生きてきたなかでいくたびも実感としてわたしのなかに起こっており、がゆえに、それは真理だと思う自分がいるのだが、しかしそれはわたし個人の範囲をはみでるものでないので、人類一般に敷衍することはできない、という事実と、いやしかしこの慣用句が慣用句として成立している以上、それはわたしだけに起こる特別な事象ではないのだ、ということがわたしをささやかにはげましてくれる。

ほんとうにめずらしく飲酒。ポテチをつまんでいたらビールを飲みたいきもちが異様に高まったので冷蔵庫に入っていたエビスの黒ビールをひと缶あけた。家でひとりで飲むのは数百日ぶりな気がする。アテは夕食の炒めものののこりと、キムチ、チーズ。缶チューハイもひとつあけ、いい気分になる。

酔っ払って猫と戯れていると、ペロペロとわたしのあたまを舐めるものがあり、しまいには耳にまで舌をのばしてきたので変な声をあげると深夜の2時になっていた。




ポップでワンダーな文芸誌「たくさんの的」、最新号公開されました、デザインのほか今回は小説を載っけています、入手できるのは2022.11.18の23:59:59まで、ぜひゲトってください


森達也『A2』(2001)。前作に引き続き、本作もおもしろい。オウム信者の住居ちかくで自然発生する自警団の怖さ。何の権限があって住居にはこばれる物資の確認をおこなうのか。しかしそんな監視の目を光らせる町民たちも、いつしか信者と友人のような関係性を築き、監視小屋は地域住民たちの交流の場にもなっていく。複数の団体がとなりあうようになった場所では対オウムではなく、その団体同士でいがみあいがはじまって小屋の解体に至るが、それを信者たちがなかよく手伝っているのがおかしい。組織と組織ではなく、ひととひとが対面するいい風景だ。友好関係がむすばれるのは住民たちとだけではなく、三女は仮設駐在所の警官とも和やかに会話をおこなっていた。当時たったの1日も学校に通えなかった彼女は市販の教材で自主学習するわけだが、劇中、「英語はだめ」だと話す彼女に森が英語での自己紹介を頼むシーンがある。うら若きオウムの幹部として、複数の名前をもつ彼女は「どの名前言ったらいいですか?」と問いかえし、森は「一番言いたい名前」と答える。やがて彼女の口からは「MY NAME IS RIKA MATSUMOTO」と本名が発される。なんとグッとくる瞬間だろうか。

若い女性信者がキティちゃんを偏愛するさまを映し、「わたしたち」と同様の普遍性をもっていることを指し示す一方、サリン事件の被害者である河野義行とのマスコミを入れての対談シーンでは、オウム幹部の社会性のなさ、幼稚さを露呈させる。そうした多面性の一例として、本作にはいかつい民族派右翼のデモシーンが収録されており(警察に警備されたオウムのアジト前で声を荒げる活動家に対して「アレじゃダメだわな」とわらいながらカメラに向かってしゃべるおっちゃんがいい味をだしている)、街宣車にまで同乗してしまう森の取り入りぶりに前作に引き続き感嘆する。彼らの暴動的なシーンから一転、巫女が画面を彩り、雅楽が鳴らされる神社での厳かな右翼新年会につなぐ編集手腕はあざやかだ。解散を発表した「SPEED」のことを「SPEEDって何? ドラッグ?」と勘違いする女性幹部のおもしろさも忘れがたい。