ギャラクシっていこうぜ!!!

トマス・ヴィンターベア『偽りなき者』(2012)。ヴィンターベアは、ラース・フォン・トリアーらとともにドグマ95を展開していた監督のうちのひとり。制作会社はもちろんツェントローパである。冒頭からトリアー式の手持ちカメラスタイルが画面上に発露しており、それだけでたのしいきもちになる。真っ暗闇で子供が「告白」するシーンの不穏さもたまらない。ひとまず、ついした感想をば。

偽りなき者、狩猟倶楽部/幼稚園という性別の異なるホモソ空間の同質性と排他性を背景に、幼女の何気ない嘘によってペドフィリアとして仕立て上げられた男。北欧の寒空の下、拒絶の手と救済の手は同じ胴体から差しのべられ、神の名のもとに合一化したかに思えるが、遺恨の弾丸は容赦なく獲物を狙撃する

本作は子供の嘘によって憂き目にあう男の受難譚という物語の裏手に、ふたつのホモソーシャルな空間が存在しており、論われがちなこの同性的な結びつきが、ひとつのセーフティネットとしても機能することを描いている。この関係性に重きを置いていることは、主人公も属する狩猟倶楽部の面々が裸になって湖で戯れているさまが最初のシーンに選ばれていることからも明らかだろう。そのつよい結束は、少女の一声によって破られ、拒絶のベクトルに反転してしまうのだが。

一方、女性の園である幼稚園においても、幼女の証言を耳にした女性園長によって、有無を言わさず「変態」のレッテルが男に張りつけられ、彼の元妻にまでそのことを触れこんで息子との仲までもを引き裂き、彼女のもとではたらく保育士たちも、彼の恋人であるナディヤを除いて排除の姿勢に同調する。ひとり主人公に寄り添うかに見えた彼女も、周囲の声に感化され、一抹の疑念を口にしてしまったが最後、孤立した彼の方からでていけと家を追いだされてしまう。

そうしてひとりぼっちになった男を救うのもまた、ホモソーシャルな狩猟倶楽部の一部の友人たちなのだった。その関係性がもたらす弊害はまちがなくあるとしても、そこに属する個々人はべつべつの独立した人間であり、手を払うひともいれば、手を差し伸べるひともいるという、至極当たり前のことが、ここでは描かれている。ひとは属性のみで判断されうるものではないのだ。

キリストの生誕を祝うクリスマスを機に「誤解」は解かれるが、しかしてここでもまた「当たり前のこと」が変奏される。「誤解」を「誤解」だったと受け止めなおすひともいれば、「誤解」を「正解」と信じたままのひともいるということだ。「正解」を唯一しっているわたしたち観客だけが、それをただしく「正解」として判を押すことができる。

原題は『Jagten』。英語でHuntの意である。狩りにおいて何よりも優先されるのは個々の生命存在ではなく、種としての存在、つまりは属性こそが標的になる。個体に由来する「大きさ」や「いろかたち」が問題になるのは、獲物を得てからの問題だ。「狩り」に参入するための、大人/子供を隔てるイニシエーションが本作のラストに配されていることの意味を、わたしたちはエンドロールをながめながらつよく噛み締めるだろう。


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夜、エリンギ、椎茸、なめこ、鶏ももをみりんと醤油で炒めたもの。なめこおろし的な感じ。大根はないが。緊急事態宣言がでた所為で、フライヤーのしごとが延期の危機。こちとら生活は実家パワーでなんとかなっているが、じっさいに公演を打つ劇団や役者やスタッフの苦労や心痛を思うとウーンと唸ってしまう。いわゆるライブ・エンタテインメント業界はこの1年でずいぶんと疲弊してしまっているよな。配信という手法もあるけれど、それじゃけっしてつたわらないものがあることは、いちどでも「現場」にでむいたことのあるひとは理解しているだろう。

『レイズド・バイ・ウルブス』5話。ここまで見てきてようやくお、と思ったのは、自身の人格を形成した人間=創造主の記憶をとりもどしたアンドロイドが、自らの否定する有神論的な態度に接近してしまうことだった。マザーと呼ばれる彼女は「母」として子供を育てることに尽力するわけだが、この出産-育児のプロセスにおいて機能しているものこそが「創造主」としてのふるまいであり、まなざしだ。「神」概念と、「母」概念のむすびつきの強固さ。

午後、画面上でだいたいつくりこんだので、原寸でフライヤーを試しに刷ってみる。いい感じ。これまでにやっていないスタイルで、歩んできた道のりの延長に到達できた感覚があり、達成感がある。緊急事態宣言の影響もあって公演延期が決定し、お披露目まではずいぶん時間がかかりそうだが、期待されたし。

フライヤーのいきおいで自己の制作のブラッシュアップにも手をだす。ものをつくるたびに、新たな「語」を獲得する。この蓄積が、すぐれた「文」をつくる。初期オウガを聴きながら、頼りない部分の密度の調整をおこなう。

夜、ひき肉、茄子、キャベツ、干し海老を豆板醤、豆豉で炒めたもの。

スマホが重くていらいらする。ネットの速度もあるが、物理的な重量のことである。わたしの手はひとよりちいさく、それも影響しているのだろう。下部を支えるゆびが耐えきれなくなって、ポトリと床に落ちていった。