手をとるまでのわずかな火柱

妹の歌声でめざめる。もともと年間休日が少ない職場なので、感動もひとしおなのだろう。都市も大概だが、田舎の労働環境はひとにやさしくない。

富野由悠季機動戦士Zガンダム』21話。いよいよZガンダムが登場する。21話になるまでタイトルにもなっているロボットがでてこないってすごい話じゃないか? サラやマウアーなど新キャラもポンポンあらわれ、目にたのしい。アポリーさんがさいしょにZに搭乗してやってくることもおもしろく思った。カミーユを救う存在としてともにあらわれるファが、フォウ喪失の埋草になっている気がして、残酷だなと思った。そんなふたりの抱擁を、ブライトやエマが目撃するカットを入れているのがいい。台詞としては表出されないが、そこに生まれる思いが、ドラマをつくる。

オラシオ・カステジャーノス・モヤ『吐き気』のうち「フランシスコ・オルメド殺害をめぐる変奏」を読む。息のながい一文が蛇のようにうごめく文体によって、何年も前に死んだある男の、死に至るまでのストーリーを、売春婦と酒とゲリラをカクテルしながら幾度も想像しなおす汗ばんだ短編。特徴的なその文は、たとえば以下のようなスタイルで筆記される。

まったく、私自身も暇の極みでその仮説を嫌というほどいじくり回し、躍起になって政治色に染め上げ、病んだように話を作り込み、おそらくそうして自分がずるずると国を留守にしていたのを正当化しようとしていたのに、今になって別の真実が、全てのカギを握るというのに私がすっかり見過ごしていたその女よろしく、大股開きで決然と立ちはだかるとは。

複数の動詞(いじくり回し、染め上げ、作り込み……)をともなう修飾語の連打が、意味の確定の先送りを展開し、くりのべられたその先端に、またべつの長いひとかたまりの文が接続され、擬人法までもが登場する。この読みにくさの波にたゆたっているうちに、二転三転する「死の真相」が主人公の過剰な妄想力によって幾度も語りなおされ、気づけば物語の結末に漂着しているという塩梅だ。

本書は推理小説ではないので、フランシスコ・オルメドがはたしてどう死んだのかは重要ではなく、性と暴力の匂い立つその真夏の中米の空気を文の端端から吸いこみながら、文体のうねりに身を任せるのが最適の愉しみかただろう。後半の二篇はまたべつの機会に読む。


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ラジオ。話題にならないような話題をてきとう雑談につっこむのはやめようと思いました。それはてきとうではなく、安易と呼ぶべきでしょう。話題の数の多さに押されて、それらをつなぐ意識がおろそかになっていたなと一夜明けて考えています。

機動戦士Zガンダム』22-24話。とにもかくにも「久しぶりね、カミーユ」と体当たりしてくるレコアさんの魅力よ(22話「シロッコの眼」)。こういうコミュニケーションの取り方をしてくる少し年上の女性には、そりゃあやられてしまうだろうとにやついてしまう。23話「ムーン・アタック」で、ファが「アストナージさん、怒ってたわよ」とカミーユに話しかけてしまうのとは雲泥の差である。だが、その天邪鬼ぶりにもわたしの心はときめくのであった。愛をめぐって、人間、そうそう素直には生きることはできないのだから。

同回でカミーユが「考えてみれば、男の戦場にこんなにまで女性が前に出てくることは異常だ。世界が変わってきている」と心のうちでつぶやいていたが、富野アニメの特質としてつよい女性たちの存在は欠くことのできない要素であり、エルガイムのいつだかの次回予告でキャオが「いま、女性パワーがおもしろい!」と叫んでいたが、そのことも思いだした。