すごく嫌いなひとと30年間いっしょに暮らす

ガルクラ12話。事務所契約・レコーディング回。アバンの宣材写真の撮影シーンで緊張して肩をいからせ、目をガンびらきしている智ちゃんがかわいい。仁菜が恥ずかしめの青臭い台詞を言っている際に「まったく……」みたいな感じで呆れ顔している智ちゃんがかわいい。

アストロノオト11話。OPのダンスって送別会のテルルンダンスにつながるんだ!というちいさな感動があった。本編は変形ロボアニメに一転。ふざけの思いきりがいい。

段ボール再発掘。やっぱりない。中身を整理してニャンにボロボロにされた箱をふたつ捨てる。汗をかく。水をガブガブ飲む。

夜、アジのなめろう、タイとアジの漬け、ピーマンの肉詰め。うまい。

アストロノオト最終12話。第1話のアバンでロボットアニメ風の描写が為されたが、11話おわりまでそんな要素はなかったのに最終話でもどってくるのがウケる(イデオンパロディもある)。「最終話で、全部いただきます」という不穏さ香るコピーについて以前触れたが、そういう(どういう?)展開にはならず、ハッピーエンドに。ぼちぼちおもしろかった。まさかの宇宙行きを決断する正吉さん、HPをながめていて声・三木眞一郎だったんだ!といま気づいた。

夜、ねぎ豚にんにく炒め。うまい。食べた妹は、丸々1ヶ月同じ食べ物しか食べられないとしたら、こういう塩豚かホワイトシチューだとのたまっていた。

プリキュアファンのネトウヨミソジニスト」って自分のなかでは天皇信者の極左テロリストぐらい矛盾した存在なのだが、じっさいにはそれなりの数が見受けられ、なぜなのか……とため息がでる。「フェミニズムだけは絶対に、絶対に許さない」。おまえの好きなプリキュアは、天地がひっくりかえってもぜったいにそんなこと言わないだろ!!!!




排気口『暗愁行尸』、フライヤーデザインとコピーをやっています、昨春好評を博した排気口の恐怖演劇第2弾、逃げ場なしの劇場で、ぜひご堪能ください、ご予約は以下より

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夏で、あついので、ニャンたちは段ボールタワーのてっぺんの毛布ゾーンから寝床をわたしのベッドに移し、2匹貝のように丸まって眠りに就いている。時折足の先や、のばした腕の先端で毛を撫でる。ぼんやりとまぶたがもちあがり、ふたたびとじる。

Qさんと長電話。2時間ほど。さいきん本の紛失をきっかけにくらいきもちが心を覆っているが、やわらぐときが流れた。音楽、本、料理、ネットラジオ都知事選、野心の薄れの話などをした。

京アニ放火殺人事件の裁判記録を読んでいた。今年の7月で5年。遺族および生きのこったひとたちの供述調書がならぶ第17-21回公判、読んでいてほんとうにかなしいきもちになる。(娘や息子、妻や夫、兄弟姉妹が)京アニに就職するまでの生い立ちと、事件の日当日のこと、そして愛するひとがこの世からいなくなってしまったことを突きつけられた日のこと。その感情の抑えられた「簡素」と言って差し支えない、しかしみぢかに接していたからこそ書ける日々の生活を映しとる具体的な記述のなかに、個々のひとのすがたが立ち上がる。


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夜、チキンのシチュー風。うまい。

同人会議。さいきん読んだり観たりした本・映画・アニメ、あるいはインターネットあれこれの話をしつつ、発行日の延期を決定する。

昼、麻婆丼。うまい。

裁判記録を引き続き読む。興味深かったのは結審の日の弁護側のロジックの立てかた。個々の事例ではなく、死刑制度の話から入っていくので、いくつかの遺族の調書のなかでも触れられていたが「べつの問題では?」と思ってしまった。わたしは死刑廃止論者なのでその意見の中身に異議はないのだが、この場でその論を展開するのは青葉を弁護するための無理くりの策としか思えなかった。「死刑不可避」の裁判においては、そうしたアクロバティックでもなければ弁護できないということか。

夜、とうもろこしご飯、ほか惣菜。うまい。

昨晩の通話で小泉義之の話をし、青葉真司の裁判記録を読んだのもあって『弔い・生殖・病の哲学』に手をのばす。まえがきにすでに付箋がはってある。

・弔いは、誰かの死と私の生の断絶を思い知ることである。
・モラルは、〈生きることはよい〉と〈殺すことはない〉だけで足りる。

この冒頭の2行だけで買った意味がある、と思う。「誰かが死ぬことと、私が生きていることのあいだには、何の関係もない」。それを「思い知ることが弔うということである」。

ガルクラ最終13話。「あたしは生涯 あたし以外じゃ生きられないよ」という桃香のリリック(ダイヤモンドダスト「空の箱」)が、仁菜はもちろん、ヒナも救っていたということ。この「I need to be myself」の精神はロックを体現する重要なアティチュードのひとつだとわたしは思っていて(cf.尾崎豊oasissyrup16g、paionia……:ここには確実に「系譜」がある)、それが自己を信じつづける仁菜のすがたにかさなって、物語を推進してきたと思うのだが、このような「和解」のかたちでフィニッシュを迎えて「よかったね……」と心から思った。自身に嘘をつきたくない、それで会社を辞めた自分にかなり刺さる話だったんだとここまで観てきてようやくわかった。なにかアニメを観て、2期を期待するきもちなんてこれまでいちども生まれたことがなかった気がするが、本作ではじめてその感情が起こった。序盤は「曲がね……」とか言っていたのに、いまではライヴ行きたいな!と思っているほどである。放映前に東映アニメーションミュージアムに行った際になんかグッズを買っておけばよかった!

I.N.Mに関連して、ed曲が「誰にもなれない私だから」なのがやばすぎると思った。モロに「I can't be no one else」(oasis「supersonic」)である。