tame no tame

制作、すべての作品が額装までフィニッシュする。のこるは梱包のみ。つかれた。ぶじ間に合ってよかった。

夜、茄子の揚げ浸し(生姜・醤油・砂糖・酢・酒)、挽肉ニンニク揚げ茄子のヨーグルト炒め(塩・胡椒・醤油。ウェイパー)。うまい。大量の茄子を一気に消費する。

制作、梱包おわる。用意していた資材が足りなくて一時はどうなるかと思われたが、妹の協力があり、追加で買いに行かずに済む。あまりきれいなしあがりとは言えないが、中身がぶじにはこばれさえすればよかろう精神で邁進した。

梱包のあいだ、親が鬼滅の刃を見ていて、以前もここに書いたようにすべてを台詞で説明してくれるのだなと思って聞いていたのだが、これはつまり視覚障害をもったひとでもたのしめるようにとアニメとしてだけではなく、ラジオドラマとしても制作されているのか?と思いなおすなどした。そう考えるとしっくりくるほどの過剰さがある。

夜、昨日のあまり、茹でタン。うまい。にんにく・じゃがいも・塩胡椒と炊飯器に入れ、にど炊きした。途中、茹だった水があふれだしてたいへんだった。炊いたあとも釜にかかった圧力が蓋をあけることをゆるさず、しばし格闘することとなった。以前に茹でた牛タンを食べたのはもう何年も前のことだが、そのときに「焼いたほうが好きだな」と思った記憶がさらにつよく塗りかさねられることとなった。いずれは揚げや蒸しなんかも試してみたい。



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祖母をデイサービスに送りだす時間にめざめる。しばらく留守にするからとあいさつだけし、部屋にもどってしばらくまどろむ。しばらくしてからじゅんびしておいた着替えをリュックに詰めこみ、パンを食べつつニャンを撫で、水シャワーを浴びて、家をでる。電車は東京に帰るであろう客たちでそれなりに混雑していた。

ターミナル駅にある酒屋で酒を買い、はやめに新幹線へ。在来線とは年齢層がちがって、田舎に帰ったであろう子供連れの家族がそれなりの数おり、読書のさなかにいくども座席を蹴り上げられるにぎやかな道中だった。

大宮から新宿に至る車内で乗代雄介『それは誠』読みおえる。よかった。読みすすめている最中、なんども頬がほころび、なんどか鳥肌さえ立った。付箋を貼った部分をひとまずあたまから引用していく。

「二人とも畑に行ってます」と正直に言った。自分の言いたいことが嘘偽り無しに本当だっていうのは素晴らしいことだ。

語り手である主人公がずる休みの連絡を学校にした際に、保護者へと電話を変わるよう促す先生に対して返答した場面。「自分の言いたいことが嘘偽り無しに本当だっていうのは素晴らしいことだ」というフレーズ自体に魅力と含蓄があり、本書の書かれるアティテュードにも通ずるものが感じられ、なおかつここで言われていることはまさに「誠」ということであって、そのように文章のなかで題が反響しているのにもグッとくるではないか。

(…)生きてて一番うれしいぐらいだった。それまでの一番は、幼稚園の時に脱走したモルモットが僕のロッカーへ一目散に逃げ込み、籠城してみんなを困らせた時だ。あいつはそんなこと知らなかっただろうけど、幼稚園で両親がいないのはたぶん僕だけだった。だから僕のロッカーに入ったんだと思った。あれからしばらく、自分の育ちを思い知る出来事があるたび、あいつが僕のロッカーの隅で踏ん張ってる姿を思い浮かべた。おかげで、今じゃあっけらかんとしたもんだ。

このエピソードのディティール。すごすぎる!と思う。わたしは両親が不在でもなく、幼稚園でモルモットを飼っていた思いでもないが、ほんとうにうれしく、人生の支えになる出来事とはこういうものなのだとこの文章を読んでつよく実感できる。自身の母親が亡くなっていることをはじめてクラスメイトに打ち明ける場面でこの挿話が登場するのもいい。PCのキーボードを打鍵して、ディスプレイに表示された文字を通して伝えるというその回路もおもしろいが、あまりのタイピング速度に対して「速すぎて重みがなくない?」と恋慕を寄せる同級生から投げかけられてうれしがるこころのうごきもなんていじらしく、なんてまぶしいんだと思う(この出来事を「生きてて一番うれしい」ものとして感覚しているのだ!)。

こうしたエピソードぢからはたとえば、「大した不潔漢で、どろどろの上履きに青黴の生えたベルトして、宝塚ってご立派な苗字を毎日泣かせているような奴」であるヅカが、学年全体で宝塚の舞台を鑑賞した折、「歌劇に無感動だった奴らが一つからかってやろうと感想を求めた」際に、「本当に胸いっぱいの様子で、ただ一言「後にしてくれ」と首を振った」というような箇所にも十全に発揮されている(情報室における「美点」を踏まえた野球部員の紹介もかなりイカしている)。ともに本作のピークのひとつであろう、賢治を例にだしてのいっしょに溺れようとするひとの話や、芝生の広場での園児たちが落ち葉で遊ぶ場面(偉大な先駆者の高潔な姿勢!)も、方向性はちがえども、筆力が為せる「言葉の感動」が宿っている。さて、いったいそれらは何に由来しているか? 乗代は以下のようにも書いている。

(…)ことわざってのは実にいいもんだとしみじみ思ったね。なにしろ、今も昔もみんなが同じ意味で使ってきたんだから。例外はあるけど、基本的には、古来せっせと口にしたり紙に書いたり電子機器に打ち込んだりしながら、こぞって意味を揺るぎないものにしてきた。意味っていうのはそんな風に、墓を踏み固めるみたいにして埋まってるべきもんなんだ。

他の作品でもくりかえし述べられてきた歴史性への信頼。これまで連綿とつづいてきた営みの先に「わたし」がいるという意識。その積みかさねこそが、先に述べた「ぢから」であったり「感動」の源泉である。踏み(文)かたまった〈文学〉の上で、自分の靴跡と似たような靴跡を見つける、「自分だけのって枕詞で言の葉をお楽しみの奴ら」にはけっして理解されないよろこび。「〈眼光紙背に徹す〉」を直後に差し入れるあざとさ・ユーモアも含めて、信のマインドが爆上がりするシーンだ。

手持ち無沙汰の僕は、その様子をぼんやり眺めていた。こういう手がかりを失って、今日のことはみんなの中でどんな風にあり続けるのだろう。消えたり現れたり広がったり狭まったり歪んだり整ったりしながら、僕がこうして書いたものとはどう違っているのだろう。

阿佐美景子サーガでいうところの叔母・ゆき江ちゃんの存在。膨大な本を読みながら、何も書かない、残さないにんげんのこと。あるいは、保坂和志「この人の閾」における以下の会話を思いだしてもいい。

「真紀さんこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ──、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中にだけ保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい──っていうわけだ」
「だって、読むってそういうことでしょ」

こんな風にして読んだ本の気に入った場面を書き写して、それをもとに文章を書いて、しかも世界に公開してしまうような心性のわたしとは雲泥の「高潔さ」が、ここにはある。そして、その前提があるからこそ、「それでもなお、」文を書くにんげんにわたしは心打たれる。

僕は自分の知らないところで何かが起こってるのだけがうれしいんだ。

インターネットを見ていると、世界に対する「信」が失われていくような出来事ばかりが目に入ってくる。しかし、「信」に値する世界はたしかにあるのだと、乗代の小説を読んでいると思いなおす。わたしのしらないところで何かが起こっている。だれも聴いても、見ても、触れてもいない何かが起こっている。だれにも語られず、記録されず、のこされない何かが起こっている。そのようにして世界は存在している。これが希望でなくて、なんであろうか? それが誠でなくて、なんであろうか?