傾聴する遺体を踏む

待合室でもすこし読みすすめていたが、道中の伴走はメカスの詩集。到着までに解説をのぞいた本文200頁ほどを読む。逝去の折に既刊の2冊の詩集をコンパイルした本で、その作風のちがいにおどろいた。素朴に故郷での少年時代を懐古する「セメニシュケイの牧歌」と、内省的なぶつ切れの言葉を淡々と並べた「森の中で」。また、だいぶ前にべつの本でメカスの(映像)作品とエッセーのちがいに驚愕したことをここにも書いたが、本書においてもエッセーに見られたような政治性はだいぶなりを潜めており(「森の中で」のヨーロッパに関しての詩行には多少の政治性が認められるが、それは個/孤的なものというよりも一般論的な風合いのほうがつよく思えてしまった)、その記憶がふたたびよみがえってくる読書ともなった。ふつふつと水面下で煮えたぎる感情が、いかにしてこのような言葉に濾過されるか?


▼このタイトルに書かれてある「サボテンを衝動買いしてしまいそうになる」感覚は都市固有のものだと田舎に帰ったわたしは思いなおす
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都内入りしたあたりで車窓を見やると、傘を差したひとのすがたが二、三あり、目を凝らすと、粉雪が舞っていた。雪に対して傘を差す文化はわたしの地方にはなく、つまりそれは雪のしめりかたの問題で、ビチョビチョの雪は嫌だなと思ってバスを降りるとすでに雪は止んでいた。一方、風はきびしく、南下したとはいえでてきた頃よりも肌寒さを感じた。

HさんQさんと合流するため、劇場まで向かう(そういえば、今回の公演はここで告知するのを忘れてしまっていたので、下にフライヤーの画像を貼っておく)。駅からの道のりでは公演を観おえたばかりの客たちとすれちがい、うれしいきもちになる(前回の来訪時も同じ体験をした)。みしった声も聞こえた気がしたが、鳥目なので判別はつかない(劇場に着いてからHが来ていたと話を聞き、やっぱりそうだったのかとなる)。喫煙スペースの前で撤収を待っていると、またもみしった声が隣から聞こえ、よく見るとSさんだった。その隣には金沢で会ったKちゃん、インターネットを介してしかやりとりをしていなかったNさんもおり、つめたい風が吹きつけるなかしばし歓談する。途中でQさんが声をかけてくれ、彼らと別れて座組に挨拶をする。薄汚れた雰囲気の、いい感じのセットを観劇のひとあし先に目に焼きつける。


▼前回の来訪時(正確には前々回だが、前回は金沢帰りに一瞬立ち寄っただけなのでノーカン)
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前回も公演おわりに立ち寄った中華屋で腹ごしらえ。牛肉水煮+ライス、木須肉定食、麻婆豆腐定食をそれぞれ頼む。「味の濃いスープ、腐った炒飯、味の薄い酢豚」と散々だった前回とは打って変わって、ちゃんとした(?)味を感じることができる。家に帰ってビールと焼酎で乾杯。先ほど別れたSさんも夜中にやってきて、だいぶ夜深くまで話しこむ。保坂和志、乗代雄介、小劇場劇団などの話。


公演のフライヤー、なぜ告知できなかったといえば、毎回たんぶらーに書いている制作ノート(のようなもの)を公演前に書き上げることができなかったからである、なので今回は事後にその文章が書かれることになる



目覚めると、なぜかTの巨躯が眼前にあり、わらう。肉まんと缶コーヒーを買って勝手に家のなかに忍びこみ、激励(公演の陣中見舞?)にきてくれたそうだ。その好意をありがたくいただき、劇場に向かうHさんQさんを相次いで見送ってわたしは都現美へと足をのばす。

オルデンボルフ展@東京都現代美術館、すべての作品が映像によって構成された展示であり、映像インスタレーションが好きなわたしはじっくりたのしく鑑賞しはしたのだが、最初の作品を鑑賞しているあいだに「インテリ(映像内に登場する人物はアーティストであり、政治学者であり、大学教授であり、理論物理学者であり……)がインテリな話(ポストコロニアリズムジェンダー論、フェミニズムetc.)をしてそれをインテリ(都現美に足を運び、大人気のディオール展ではなく、わざわざオランダの作家の現代美術展を観るにんげん……)が見る、みたいな構図に可能性なんてないだろう」という考えがあたまのなかに立ちのぼってきてしまい、とうとうその思考がさいごまで打ち消されることはなかったのだった。おそらく都内で毎週のようにギャラリー/美術館に通っていた頃のわたしであれば、こうした疑義が浮かんでくることはなかったのだろうが、環境的に(現代)美術から遠く離れてしまったわたしにとっては切実な問題として作品のまえに巨大な「?」があらわれたのだった。そもそも「現代アート」という枠組みがその構図を逃れ得ない、などとも思ったが、かつてその名で呼ばれるものに関心のなかったわたしがつよい興味をもつようになった実体験はあるわけで、そういう意味では作品/展示次第で可能性はあると思うのだが、、

というわけで、自身の変化を突きつけられた記念碑的な展示となった。展示室のおわりぎわ、ジェンダー論について語っている作品のドデカスクリーンの前に「いち、に、さん、し、ご、ろく!」と大声でカウントアップしながらおどりでてくる女児があり、たいそう愉快なきもちになったのもよかった。