ぶざまな同伴者

電車の乗り換えのたび、おなじにんげんがおれのことを追い抜いて車両に入っていく。そのおおきくあけはなたれた背中から揺るぎない敵愾心を感じ、威圧される。

阿佐ヶ谷にてTさんと制作中の本についての打ち合わせ。300頁超のぶあつブックの完成がちかい。のち、べつのTさんも交え、飲酒。映画作品内における家父長制のはびこりに憤るTさんがあり、その熱量に感化されてわたしもそれらの作品を観ようと思った。お宅にもおじゃまし、『プリキュアオールスターズ 春のカーニバル』なんかをBGVに、進撃の巨人ヨルゴス・ランティモス濱口竜介についてのレクチャーを受けながら夜更けまで話しこむ。数値化に異を唱えているくせに、ランキングをつくるのも、ひとのランキングを見たり聞いたりするのも大好きなわたしはTさんとたがいにベスト3アニメを発表しあって盛り上がる。そこにランクインはしていないが、Tさんのおすすめだというデジモンアドベンチャーの最終回、それまでの4クールぶんのあつみをしらなくても泣ける演出になっていてすさまじかった。

途中までTさんに送ってもらいながら長い歩行をし、HQハウスへ。横たわるNさんと、公演4日目をおえて一服するQさんがおでむかえしてくれる。道中Tさんと話していた事柄がふたたびQさんの口から発されるという、東京滞在中によく起きる、しかしふつうに生きていては早々起こらないシンクロニシティを今回の滞在でも経験する。



にどねさんどねをくりかえしつつ劇場に向かうNさんQさんを見送り、渋谷へ。イメージフォーラムでチウ・ション『郊外の鳥たち』(2018)。測量士の男が地盤沈下する街を計測していくなかで、言葉とイメージの連接によって、同じ場所・ふたつの時代の出来事がむすばれ、ほどかれ、流れていく。アピチャッポン風の語り口のなかで多用されるズームアップ/アウトがきもちのわるいリズムをかたちづくっていておもしろかった(ホン・サンス由来だと目にしたがわたしは彼の作品を観たことがない)。主人公の少年に思いを寄せる女の子が少年の髪を切ってあげる場面、勢いあまってできてしまったはげを、その部分に水を塗りたくって自身の毛を断髪して被せてあげるシーンに本作の姿勢が象徴的にあらわれていると思った。ふしぎな質感をもった映画なので好きではあるが、アピチャッポンの映画が「おもしろ」くはあっても「おもしろい映画」ではないように、本作もおもしろい映画ではなかった。MAMスクリーンでかかっているアジア作家の映像に少々の物語性を足した感じだな、などと観ている最中思っていた。

青山ブックセンターをチラ見したのち、すぐそばのやよい軒へ。いろいろとシステムが変わっており戸惑った。いっとき各卓でのタッチパネルシステムでの注文だったのが入り口券売機方式にもどっており、ごはんもおひつからおかわりするのではなく、お冷のように機械からボトボトと排出されるしくみになっていた。排出口の真下にはお椀に落下することのなかった白米がこびりついており、排出のさまも相まってやよい軒は「食べる体験」を捨てていると思った。ファーマーズマーケット周辺では散歩する犬たちを複数見かけた。劇場に向かう電車のなかでは、昨日Tさんと話していたエブエブやシャマランについて話すふたり組みの女性がわたしの座席の真ん前におり、にどめのシンクロニシティを体験した。



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排気口『人足寄場』@荻窪小劇場。怖すぎる。背筋がゾクゾクした。「ホラー演劇」を観るのははじめてだったが、ちゃんと怖く、しかも心霊的な恐怖から猟奇的な恐怖、厭な恐怖と複数のホラー要素が入り交じってくるものだから、その多層なおそろしさのありさまに心臓をぐいとつかまれる思いがした。何よりも、あんなにもくだらなくわらえるやりとりの連続が、こんなにもおっかない場所に着地してしまうのかという点にすさまじさをおぼえた。いつだかの公演の際に、脚本家が複数いるのではないかというついを見かけたが、その推理もさもありなんと思ってしまう「距離」が排気口のテキストにはある。この距離についてはのちのちあっぷされるだろう、しかし未だ執筆に着手していないたんぶらーでの制作ノートのほうで触れるかもしれない。


▼前回公演の制作ノートはこちら

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/709886107243921408/iwanna
seimeikatsudou.tumblr.com


細部の話だけしていくが、「裏拍手」をはじめとするこの世の存在ではあらざる者たちがおこなう「反対のこと」を、言外の位置にも配しているのがひじょうに効いていると思った。「この家なんか変だね」とくるみが言いかける場面があるが、そしてその続きが言葉として発されることはないが、彼女が言わんとしていることは「裏庭」という眼前にひろがる舞台上においてつねに明示されつづけている。そう、本作中、誰ひとりとして、玄関からこの家にやってくる者はいないのである。また、ひとつのギミックとなっている選挙ポスター(「裏」に悪意は隠されている……)が道に面している側ではなく、庭側に貼られていることも同様におそろしい事態である。くるみの口臭にめん次郎がツッコミを入れるシーンも、その肉体が縫いあわされた死体からできているとしってから思いかえせば背筋がヒヤリとする。

こうした反転性は本作の軸のひとつであり、初演においてそれは「オセロ」の登場によって暗示させられていたが、今回はより洗練されたかたちで作品化されていたように思う。劇中でなんども繰り広げられる「ディベート」も、そもそもは肯定・否定(オモテ・ウラとのアナロジー……)のふたつの立場に分かれて議論することを指す。それがまともに成立していないとは、本作においていかなる事態を意味しているのか? 白と黒とをはっきりさせない、曖昧なグレーゾーン……それは「彼方」にあったはずが「此方」もその範囲であった、闇深き藪知らずのようである。そのさなかで、劇中の登場人物たちは物語の進行にあわせてくるくると立場を反転させ、破滅の(あるいは再生の)一途を辿っていく……。

今作は出演者が5人と長編としてはおそらく『静かにできない私達、も』(2017、6名)以来の少人数で座組が組まれていて、それもあってかそれぞれの際立ちが感じられた。愛らしさと馬鹿馬鹿しさの詰まったキッズキャラが板についた、中村ボリのおふざけの内に秘められた「熱意」。このまっすぐな熱意がかもしだされているいるからこそ、ラストの恐怖もいっそう肝が冷えるものになる。場のユーモアを加速させながら物語を推進させていく、佐藤あきらのつんのめりなナラティブ。本作のグルーヴを形成していたのは、まちがいなくこの語りであったろう。初登場の時点から不気味さをたたえていた、坂本恕のうつろな硬直性。その前半と後半におけるスムーズな視差は、まさしくグレーゾーン的な流れを体現するものとしてあらわれていた。近年はキッズキャラの影で鳴りを潜めていた「まじめなキャラ」として、場の重石となっていた坂本ヤマトの「転覆」。その重量が重ければ重いほど、ひっくりかえったときの衝撃もおおきくなる。同じく反転性を身にそなえ、無邪気に「ちんぽこちんぽこ」と連呼していた「不思議ちゃん」から、やがては「恐怖」そのものになる倉里晴。縁側から庭へと降り立つ際の動作ひとつとっても、能楽師能楽は霊との交信の場でもある)のような趣があり、そこに恐ろしさが見え隠れしていた。