バックアップ・パラライズ

コレクション展もざっと見し、渋谷へ。パルコの田中そば店で肉そば。うまい。渋谷に来ると、新店開拓するきもちよりもここでラーメンを食うきもちがまさってしまう。しかし来るたびに値上がりしている気がする。物価高騰の波。

ユーロスペースにて三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』。観おえてから気づいたが、2023年の映画初めだった。すばらしい映画で幕を開けることができて、ほんとうによかった。鑑賞中、なんども目に涙をためた。こぼした。母の撮ったピンボケ写真のスライドショー、会長が前戦の録画ビデオを観ているのをケイコが覗き見てしまうシーン、鏡の前で会長とふたりケイコがシャドーボクシングをするシーン、劣勢つづきのラストバトル、そして映画のおわりかた。鏡と交通。光のちから。

冒頭、字幕によって主人公が聾であることが明かされるが、その画面に映る「文字」の存在感によって否が応でも映画の「音」に観客の意識は向くことになる。われわれの鼓膜をゆさぶるはげしいミット打ちの打撃音も、幾度も画面を通過するけたたましい電車の走行音も、彼女の耳には届かない。そのことが、慎ましく宣言されるその処理のしかたにまず感動した。

さいしょに涙がこみあげたスライドショーのシーン、観客は撮影者である母の眼を通して試合をふりかえるわけだが、そこで起きる共振がすさまじかった。傷つく娘を見ていられないとブレブレでヘタクソなその写真に宿るどうしようもないエモーション、さらには写真が変わる合図として鳴っていたカメラのスイッチ音がやがては消えて、つまりはスクリーンに映るものが、母の撮った写真を見つめるケイコの眼へと移行するその移行のあざやかさにもバチバチに打たれたのだった。この劇中の人物が撮影したショットがスクリーンに映しだされる構造は、前作ワイルドツアーでも見られたものだったが、相当わたし好みのつくりであり、心を奪われた。

クソのような職質後、電車が走り抜ける高架下をケイコが画面奥から手前に横切るシーン、高架橋から漏れでる荒々しい閃光のうつくしさも忘れがたい。

ビールを買って帰宅し、パンフを読みながらちびちびやる。しばらくするとHさんQさんとともに同じく劇場帰りのNさんもやってきて、ちいちゃな宴会がはじまる。


▼ワイルドツアーについてはここで触れている
seimeikatsudou.hatenablog.com



起床。会場準備のため早めにでるNさんQさんを見送り、ひと足遅くシャワーを浴びて出発。道中のラーメン屋にてえびそば。ねらっていた店には行列ができていたので妥協の味。



排気口『アイワナシーユーアゲイン』。おもしろかった。よりストレートになった印象、構造のスリム化を感じた。この「ストレート」は前回公演で感じたものとはちがって、個々のナラティヴのありかた(前作は個々ではなく全体をながめると逆にふくざつさが浮き上がってくる)にそれを見るのではなく、ストーリーの一塊性がそう感じさせるつくりになっていた気がする。いまの東京小劇場シーンにおいて、この水準で「物語」をやれる作家がはたしてどれだけいるだろうかと思った。ポストドラマに寄らず、不条理にも陥らず、かといって陳腐にもならずにおもしろくて、胸を打つ演劇を上演する。作品に寄り添う宣伝美術としてもう10年以上公演を観てきているが、いよいよ円熟の域に達してきていると思った。

とりわけ心を打たれたのは、プレゼントに象徴されるだれかを思うきもちのさくれつだ。クリスマス・イブを目前に控えた「幸せいっぱい」なそれぞれの登場人物のあいだで多数のコンフリクトが起きてしまう本作だが、それでもなお、自分ではない誰かのために向けた「想い」がふとこぼれる瞬間が切なく、感動する。その具体的なあらわれとしての「プレゼント」が、目に見えるかたちで舞台上に登場しないのもいい。つまりそれはラストの「白い=見えない」絵にかかっているわけで、それを観るわたしたちも誰かを想う登場人物たちと「ともに想う」ことが要請されているのである。

俳優では澁川智代の音を消失させながら発語する作法に心をつかまれた。怒りのテンションがその欠落した音の並びによって強調され、台詞の応酬のなかにはりつめたグルーヴと魅力的なフックが生まれていた。やかましい弟妹を演じる中村ボリ・坂本ヤマトの両名も相当おもしろかった。赤ちゃん風のキャラクターを演じさせたら右に出るものはいないのではないかと思わせられる演じ(園児)っぷりだった。主人公カップルの片割れを演じる佐藤あきらの「薄さ」が、周囲の「濃さ」とのバランスを成していたようにも思う。彼とさんなぎとの冒頭のやりとりの速度感も印象的で、遠巻きにその光景を見ていたかと思えば、いつの間にか渦のさなかに入ってしまう、というような導入として機能していた。


▼前回公演の感想はこちら
seimeikatsudou.hatenablog.com


劇場の外ではDさんに会う。フライヤーを褒められ、ありがたいきもちになる。のち、タリーズで同じ回を観ていたK先生とお茶。公演の感想や、映画・美術・本などのカルチャー、弱者男性、フェミニズムミソジニーあたりをめぐるキャンセルカルチャーなどについて3時間ほど話す。現代の若者(いわゆるZ世代以下)におけるスピリチュアリズムの話と、大学時代に仲のよい友人たちが多数在籍していた映像ゼミの卒制作品のなかで、毎年のようにカルト宗教の表象があらわれていた、という話がとりわけ印象にのこった。わたしの±3世代あたりになると、オウムの記憶よりも白装束(パナウェーブ研究所)のほうがつよい気がするが、、00年代前後の新宗教表象ってなにがあったろうか?