侵襲の家計

祖母の使用しているペットボトル用のフタ兼用ストロー(ベッドに寝たまま飲み物を飲んでもこぼれないすぐれもの)を分解すると黒カビが発生しており、すぐさまハイターづけにする。塩素の香り、夏の気配。数時間浸けておくときっちりきれいになる。

オトナプリキュアにSSの面々もでるとの報。やばすぎる。プリキュアのニュースを見るたびにこれしか言ってない気がするが、じっさい、ほんとうにやばいのである。

昼、ガーリックチャーハン。

ワーク、よくすすむ。昨晩収集していた素材がぴったりハマった。ヴィジュはなんとかなりそうな気配がしてくる。問題はテキストである。追加の細かいワークも入る。今週は別件の原稿も入ってくる。これらを乗り切ったあとは個展のための制作期間となる。

夜、鮭と茄子と長ネギのチーズマヨホイル焼き。うまい。


▼ワークの休憩中に読んでいたこれ、親しい友人たちと、いや親しくないひとらでもいいからいつかやりたい、ぜったいたのしい
dailyportalz.jp


ワークのやりとりのなかで名前の挙がったサリンジャーナイン・ストーリーズ』を棚からひっぱりだしてパラパラする。洗濯機をまわしながら鼻歌を歌っていると、とつじょスピッツの『インディゴ地平線』ってことじゃないか?というひらめきが起こり、制作の基層に置かれる。「対エスキモー戦争の前夜」読む。あたまとおしり以外はほぼ室内ワンシーンで1篇が構成された会話劇。主人公として置かれているであろうジニーの主な対話相手であるフランクリンの飄々とした感じがおもしろかった。付箋を貼ったのは以下のフランクリンの台詞。

「知るもんか。三十七ヵ月かな」

かつて勤めていたという飛行機工場でどのくらい働いていたのかをジニーに問われた際の答えだが、「知るもんか」と返答を拒絶しながらも即座に「三十七ヵ月かな」と細かい数字で(「三年くらい」などとは言わずに!)律儀に答える作法に関心をもったのだった。「人物」がそこにある感じというのは、こういう描写の積みかさねによって浮き上がってくる。彼の口から幾たびもくりだされる「チクショウメ」も、彼の愛らしさを伝えるのに一役買っている。

本作は、同級生のテニス仲間がいつも帰りのタクシー代を自分だけに払わせることにキレて「貸してるぶんぜんぶ払えや」とその同級生宅に押しかける話なのだが、その同級生の兄であるフランクリン、さらにはその友人であるエリックとの対話によってその怒りをおさめるのが主たる流れになっていて、べつに金銭云々の話はそこでなされないのだが、いつのまにかジニーの心が様変わりしている、というところがミソ。感情の移ろいというのは、このように起きる。そのことが読みおわると納得できる。先に書いた「『インディゴ地平線』ってことじゃないか?」もそうした心的変化の一例である。一見まったく関係がないと思われることが、わたしたちの考えを変えるきっかけになる。

夜、ブロッコリと豚のチーズかつぶし炒め。茄子とブロッコリの芯の味噌汁、レトルト餃子。うまい。芯の硬そうな部分はポイしたが、まだ繊維がつよく主張していた。



579


長文によるおきもちの表明、だるすぎないか? これまで増田などでさんざんで目にしてきた、こころのうちをつらつらとさらけだしたにんげんの「おきもち」。それを直接ぶつけられる立場になって、どんな馬鹿げたコミュニケーションなんだよとわらいがでてくる(ひどい感想だなとは思いつつも、そうなる)。インターネットに放流するのはいい。そこから議論が起こるし、存在や出来事の可視化も為されるし、書いた本人の気もまぎれるだろう。だが、日常的なやりとりのなかでちいさな「おきもち」をあらわしていくのではなく、ふくれあがった「おきもち」をとつぜん投げられていいきもちになるわけがない。もはや爆弾である(恋人同士の別れ話みたい!)。信頼とは……とかなしさすらにじみでる(じゃあ、それを本人に伝えずにここに書いているわたしは? 爆弾ではなく花を投げかえすためのひとつの方途である、単に自身の感情を整理する意味合いもある、経験主義の思考の糸口はつねに「困難」や「とまどい」や「怒り」といったマイナスの感情から生まれる……)。

上記の文を書きながら、何年か前に制作した《踏み外さない対話のための第一行》と名づけたグラフィック作品のことを思いだしていた。対話がふたりのあいだで為されるものであることから、日頃のコミュニケーションをサボっていたのは必然的にわたしも同様である、という結論をみちびきだす。「だるすぎ」を引き起こしている原因のなかには、疑いようもなくわたしも含まれてある。そうした視座から見わたしてみれば、ほかのひととのやりとりのなかにも、のちのちの「だるすぎ」につながる手抜きのコミュニケーションがいくつも発見される。先送りにした代償がいまここで支払われている。