てきとうにおだてておいてください

カレーを食べ、シャワーを浴び、妹に車で駅まで送ってもらい、東京に出発する。行きのバスではHさんの新作戯曲の断片と、舞城王太郎煙か土か食い物』を読む。前者では声が漏れるほどわらったし、後者では鼻水が垂れるほど泣いてしまった。隣にひとがいなかったとはいえ、マスクをしていなかったらおわっていた。これを打ちこんでいるいまも、わたしのくちびるには鼻水がへばりついている。

『煙〜』は舞城のデビュー作かつ凄惨な暴力小説で、殴る蹴る刺す折るの血みどろストーリーが展開されるのだが、苛烈なバイオレンスが最大限にさくれつし、さあどうなるというクライマックスの場面で放たれる叫びがもうすごすぎて涙腺が決壊した。趣は異なるが、この1行のためのつみかさねだったのかという衝撃は『淵の王』を読んだときにも感じ、その源流はすでにここにあるのだなと思った。同時に、この「物語」に感動している自分がこわいとも思った。これは暴力の話であるとともに、血縁・家族の物語でもある。そう、作中でおびただしく流れる「血」は、ここにこそつながっているのである。

ムージル『三人の女・黒つぐみ』もつづけて読みすすめる。あまりにも濃厚な「描写」に思わず頁を行ったりきたりさせられるが、文体派としてはやっぱりこういう小説にラブをおぼえる。もってきたこの2冊はともに途中まで読んでながらく放置していた本で、旅のおわりには読みおえた状態で帰郷したいと思っている。

そうこうしていると新宿に到着し、リンクスクエアの玉に直行してつけ麺を空洞になった胃袋のなかにかっこみ、スタコラと中野新橋に移動してQさんのライヴで滞在の幕を開ける。ライヴを観るのはリキッドでオウガを観た以来か? かつての頻度を思うと、その間隔に信じられないきもちになる。会場はアパートの一室を改造したライヴハウスで、玄関では靴を脱ぐスタイルとなっており、その構造にまずおもしろさをおぼえる。到着するとちょうどQさんがマイクチェックをしている最中で、わたしは最前の椅子に陣取り、スタートを待つことになる。Qさんがギターを爪弾いたり、歌を歌うすがたは滞在先の住居で幾度も目にしているが、こうしてライヴハウスでその音を浴びるのはいったい何年ぶりだろうか? MCで言及される「友人」にこそばゆいきもちになりながら、ビールで口を湿らせ、耳目を澄ませる。Qさんのギターは時折、何かをひとつひとつ、あるいは一歩一歩、確かめていくように鳴ることがある。そのたたずまいが、音楽とともに空気をかたちづくっていく。あっという間に、空間がQさんのかたちになる。ときおり落語のかたちにもなる。観おえてソファに座っていると、Qさんが隣に腰を下ろし、わたしの手の上に手のひらをかさねてくる。見つめあうふたり。空間がLOVEのかたちになる。イベントの掉尾を飾ったグッナイ小形もこう歌っていた。「I Love You More」。そう、アイ・ラヴ・ユー・モアなのだ。

打ち上げにのこるQさんに先駆け、一足先に帰宅。ベッドの上でくたばっていたHさんとコンビニに酒を買いにでかけ、乾杯しつつフライヤー制作のための打ち合わせ。生身で話をすると、まったく思いもよらないところからアイデアがあらわれたり、ころがったりするのでよりたのしい。テキストだけのやりとりや、オンライン上での対話だとこうはいかない。時間や空間のゆとりが、新しいきっかけをつくりだしてくれる。つぎつぎに生まれるアイデアで足の踏み場もなくなってきた頃にQさんも帰ってきて、ライヴイベントのふりかえりもする。わたしはいかにして前代未聞のセットリストに衝撃を受けたか、という話をする。ほんとうの前衛は自らを前衛と名乗らないのだ。よくわらい、よくねむる。

2日目。リヒターを観に近美へ。家を一歩でると、午前中だというのにすでにきょうれつな熱波。死を身近に感じる。ドラクエなどにあるダメージ床のしくみを瞬時に理解する。コンビニで茶とおにぎり、サンドイッチを買い、駅まで歩くあいだにしぼんだ胃を満たす。展示は正直びみょう。都民時代はワコウなんかで展示があるたびに観に行っていた好きなペインターのはずなのだが、企画展ではなく常設展のほうに心を打たれた(なかでも広島晃甫《青衣の女》、菊池契月《鉄漿蜻蛉》はちょうよかった)。あれだけ懐古主義をきらっていたわたしも、古典はやっぱりいい(そりゃもちろんいいのだが)、とかのたまうような古くさいにんげんになってきたのか。自身の変化にびびる。長細い通路に展示してあったドローイングはながめていてたのしかった。ピントがずれつづている真っ白な映像作品を観られたこともよかった。都現美でのマンダースも似たような細い通路にドローイングがたくさん貼ってあったことをこれを書いているいま、思いだしている。




100年のこる強度、おまえは鍛え上げられるかと問われている


のち、神保町へくりだそうとするが、あまりの暑さに辟易して地下に潜って電車に乗り、都美へ。フライヤーなどのデザインをした「ものののこしかた」展フォークロアの基層がありつつも、作家それぞれの手法と作風が展覧会タイトルのもとにアッサンブラージュされている感があり、おもしろく観た。《ものづくりのかたち》の(パ)フォームが、じっとながめていると次第にコンテンポラリーダンスの振付のように見えてきたことと、《未踏のツアー》のユーモラスなカメラワークにとくに興味を惹かれた。什器もそうだが、マッス感もよかった。参加作家も何人か在廊していて、基本的にオンライン上でのやりとりだけでデザインをおこなっていたので、じっさいに会えて話せたのもうれしかった。都美セレクションということで、ギャラリーAもCも観るつもりだったのだが、閉館時間をかんちがいしていて片方を駆け足で観ることしか叶わなかった。ざんねん。Qさんとのランチチャンスもあるか?となったのだが、立ち話に花が咲いて足に根が張ってしまった。

銀座に移動し、篝にてシャレオツなつけ麺をかっこみ、tohoシネマズ日比谷にて小林啓一『恋は光』。恋は光、とタイトルで言っているが本作で多くを担うのは光ではなく音である。オープニングから顕著な音のきもちよさがあり、パックのジュースから口を離す音、告白シーンのフレーム外にひろがっていく声の空間処理など、視覚的な光のエフェクトよりもそちらに重心が置かれているよう思った。中距離フレームワークが語る人物の感情もいい。のだが、その距離からは視力の低下を突きつけられたもしたのでふくざつなきもちにもなった。眼鏡のレンズをつくりなおしたい。『煙〜』に引き続き、鑑賞中になみだをこぼし、いいものを観て泣いてばかりいる、と思った。こうやって思ったことも、このように書かなければ、そのことを唯一しっているわたし自身も忘れてしまって、にどと思いだせなくなる。

帰宅し、Qさんと飲み、次いでSさんを招いてふたたび飲む。Sさんはいかにサイコーか、という話をSさんが来るまえにわたしがしていた、とQさんがSさんに伝えていた。こう書くと、ふくざつそうな様相になるが、約言すればSさんサイコーということだ。本の話をしたのはこの日? 日にちが空いてしまって思いだせない。買って帰ると言った『スクールアタックシンドローム』と『ロートレック荘事件』、ブックオフに立ち寄る時間がなくて買えなかった。つぎの来京時に買う。