じぶんしいたげないでじぶん

『あひる』を読みおえる。今村夏子の不穏さはくせになる。つかもうとする手からスーッとのがれていくような得体のしれなさが作品内に反響していて、しまいにはそれがあらぬ方向へといってしまって、それを呆然とながめるわたしがぽつんとのこされる読後感。『こちらあみ子』ほどの衝撃はなかったが、表題作のもつ、気づかぬうちにそれを構成するピースの一本一本がとりはずされているかのような不安感がよかった。後半に収録された2本は、そこで生じている奇妙な関係性──顔のない登場人物がたがいの作品にあらわれるような──は興味深かったが、これまで読んできた他の作品に比べてちょっと弱いような気もした。

読書記事でまとめようと思っていた『こちらあみ子』について書きだしていたテキストをこの機に成仏させておく。

14冊目、今村夏子『こちらあみ子』。筑摩書房、2014年刊。単行本は2011年にでている。こちらもはじめて読む作家。とても気に入った。3本の短編が収録されているが、どの作品も語り手は何者なのか、という謎が置かれており、それが推進力となって頁をめくらせる装置となっていると思った。なおかつ、その謎はべつにどうでもいいんだといわんばかりのむすびかたでどの作品も締めてあり、

この語り手の不明瞭さは本書でも一貫して維持されていて、読みすすめるにつれて被虐的かつ異質な存在として浮き上がってくるそのすがたが、滑稽であり、おそろしくもある。わたしも現在「あひる」の語り手と同じような立場で実家に潜んでいるので、その相似もおもしろく読んだ。

舞城王太郎熊の場所』を読みはじめる。『淵の王』のあとに読むとちょっと文体がきつい。ぱらぱらやっていると妹が起きてきたのでトーストを焼き、ベーコンエッグをつくる。かじりつきながらぽつぽつ話し、送りだす。父の熊と対峙した逸話がはさまれるあたりで文に乗っかることができ、そのまま半分すぎくらいまで読んだあと、寝落ちする。日が変わる直前に目覚める。ソーセージと卵を焼き、キャベツやキムチといっしょに米の上に乗せて食べる。ジャンク。ジャンクラブ。


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ひとつの〆切が過ぎ去り、精神的な解放があった。といっても、間に合わなかった事実とともにそれはもたらされたので、のびのびのばされた手足の愛だには、湿気た諦念も香っている。こういうざまをくりかえしていくことでわたしの「角」は摩滅し、しらないあいだに谷底へコロコロ落ちる羽目になる。許しがたいことだ。気合を入れなおすためにアドビを導入した。

乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を数篇読む。どれもにやにやわらってしまう。こんなコンスタントにおもしろい文章が書けるってどういうことなんだと思うと同時に、それだけたくさん読んで書いてきたんだろうということがまさにその文章を通して伝わってくる。

また払込票がとどいていた。ここのところまいにちとどいている気がする。勘弁してほしい。無理無理。払えるわけがない。アンダークラスの生活をなめすぎだよ。