おはよう/向かう先なし

母が幼少の頃のアルバムを整理する。古いものは台紙に写真が貼りついてしまっており、はがすのに苦戦する。ときにはわたしの幼い頃の写真もあらわれたり、若い祖母のすがたを見かけることもある。フィルムカメラが廃れたいまでは、このようにしてアルバムに綴じられる記憶や記録もずいぶんと少なくなってしまっているのではないかと思う。物理的にそこにあることと、データとしてそこにあることには、やはりおおきな隔たりが存在しているように思える。大判のアルバムを5冊空にし、東京時代の公共料金と保険料を払いに近所のコンビニまででかける。ついでに期限の切れた保険証も返しにいく。風がつよい。横断歩道で止まらない車ばかりで、クソのような土地だなとおもう。水道代だけ払込の期限が切れてしまっていて支払うことができなかった。催促を待つしかない。それにしても手痛い出費だ。

今晩の献立は、韓国のり入りもやしナムルと、豚の角煮。八角と生姜と長ねぎで風味をつけ、黒酢を入れてさっぱりと。煮卵入り。つくるだけつくって眠気のピークがきたので寝る。日が変わる前くらいに起き、食べる。テレビでやっていたAマッソの漫才、というかコントがポリティカルでおもしろかった。住民税の請求書がとどいており、開封すると約9万円とある。きつすぎ! 無職をなめるな!

健筆。健康さが文にあらわれる。すこやかであることを、おのれの手が、書くことによって記述する。屈折したバロメータとして、書かれた言葉がある。そんなことをすこやかでない文章をいくつか読んで思った。休暇が3ヶ月目に突入し、あまりの日々の無為さにこころがくじけそうな瞬間がおとずれることがではじめた。わたしはわたしを肯定してやりたい。けっして無為ではない。観てるし、読んでるし、つくってるし、書いてるぞと。常識と呼ばれるような、へんな概念に毒されるなとほおをぺちぺちたたいてやる。わたしはいつまでも健康でありたい。


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エルガイムを9-11話まで。ネイ・モー・ハンのオージェ!とスパロボFでトラウマ的つよさをはなっていた存在をしっている身としてはゴリゴリにテンションがアガった。横に立っているのはアントンと、だれだっけ?みたいな記憶のあいまいさ。こんなにドタバタ劇を志向しているのに、たとえばアムを人質にしたり、ホエールを襲わせたりとサスペンスを生むための要素を入れることを忘れていないのがおもしろい。相反するものをドラマのなかに走らせている。チンピラのでてくる場面やひとを殴るシーンがけっこう多いのだが、チープな北斗の拳みたいな感じで、ちょうど時期的にもアニメが放映されている頃なので影響が多分にあるのではと思った。

ティエリー・デメジエール×アルバン・トゥルレー『MOVE─そのステップを紐解く─』を2話まで。本来であれば今年はバットシェバを埼玉で観ているはずだったのだが、疫病パワーによって来日が中止になり、そのかなしみを癒やさんとしてオハッド・ナハリン回まで観た。リル・バックとジョン・ブーズにフィーチャーした1話ともども時間的制約もあって掘り下げは甘いのだけれども、育った土地にフォーカスを当てて人種的な問題に光をかざすのは現代的なとらえかただと思った。登場するじんぶつのジェンダーバランスにも気を遣っているように見える。この「気を遣っているように見える」ことが、わたしのジェンダー観だけに根ざしているのではないのでは、などと思うが、じっさいはどうなのだろうか。こないだラジオで『フェミニズムはみんなのもの』をとりあげたときはそこまで深い話はできなかったのだが、このへんも含めてまた話してみたいと思う。