料理をとりわけるためのスプーンを、自分が食べるためにつかうことのできるにんげん。
寝たふりをしていれば、勝手に食事のじゅんびがなされると思っているにんげん。
自身が忘れていたことをとがめられ、謝ることもせずにおれだけがわるいの?とすぐさまひらきなおるにんげん。
これらをひとまとめに父の名のもとに集約しなければならない子のかなしみを、わたしは共苦することができる。
どにち、親と顔を合わせても気が滅入るだけなので、わたしは部屋にひきこもっていることが多い。そこで本を読んだり、音楽を聞いたり、ゆーちゅーぶを見たり、寝ころんでいたりする。深夜にリビングまで降りて食事を摂り、プリキュアや映画を観て、また自室にもどる。そんなことをくりかえしているから昼夜はめちゃめちゃになり、まあべつにめちゃめちゃになったところでさして問題はないのだが、1週間かけて時間軸をぐるぐるとずらしている。
週にいちど、ラジオをやっていたころは、それがひとつの安全弁のようなものになって生活に秩序をつくっていたが、取り払われてしまったいまとなっては、抑えるものなく、もうどうしようもなく破綻してゆくだけであった。このくずれのなかで、ものをつくることにきちんと意識が向けていられることを、わたしは健康だと思った。東京に行って、その経験が1篇の詩を書かせた。あるいは、そこから離れた2篇目だって書きはじめている。かつて手をつけて未完のまま放置していた詩篇の数々にも、目をやり、いくつかの文字や行を足したり引いたりしている。作品集の通販のじゅんびをおこない、同人誌のデザインと執筆をすすめ、帰ってきてからあらたに受けたイメージヴィジュアルの制作に勤しんでいる。昼夜が逆転しようが、いちにち1食であろうが、まったく外にでなかろうが、ものがつくれているかぎりは健康だ。このすこやかさを失ったとき、わたしは崩壊するのだろう。
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わたしの手料理が食べたいということで、いとこふたりが来訪し、妹も含めて4人、食卓を囲んだ。宇宙一うまい餃子と、ニラシソ餃子、スープじゃない炒めたトムヤムクン、舞茸とチーズのレタスサラダというラインナップ。あまりにもいとこたちの口数が少なすぎて、大丈夫か?と思った。餃子は妹がつつんでくれた。むかしのホームビデオをみなでながめ、そこに映る十何年もまえのわたしたちや家族のすがたにおおわらいした。祖母と母と父は、べつのテーブルで食事を摂った。複数人での食事中にテレビはないほうがいいとあらためて思った。ふだんまったくそんなことを思わないが、ひょっとするとわたしは自分が思うよりも、おしゃべりが好きなのかもしれない。
食事のまえ、妹に運転してもらって、すこし遠くまで買いだしにでかけた。わたしは妹を溺愛しているので、たのしいなと思ったが、空腹ででかけた所為ですぐに車酔いし、不快な気分を抱えて巨大なディスカウントストアをゾンビのようにウロウロとさまようこととなった。