わたしの横でねむるあなたの歌が、隣のキッチンから聴こえはじめる(中)

(前)

 ツナと茄子の揚げ玉入りスパゲティで朝餉。蕎麦屋の揚げ玉はうまいうまいといいあいながらひとつのフライパンを三人で囲んだあとは、クーラーのきいた部屋のなかで思いっきりゴロゴロする。ひとしきりころがって、自分たちが猫なのか、そうでないのかを延々と問いかけあったならば、Hさんの呼びかけで、Qさんとわたしは印字されてある文字を交互に読む遊びにしゃれこむことにする。たとえば、こんな風に。「おい、ちょっと」「何だね?」「あいつのチンポコは瓶のように長くて太いってのは本当か?」「それほどはっきりと断言はできないがね。俺はただ小便の時に一回見たきりだから。そりゃあ、ユダヤ人だって小便はするからね。その時に俺が見たものは、さほどでもなかったかな」「さほどでもない?」「だがね、何たってチンポコは奇跡を起こすからね。そんなもんさ」…… もしくは、こんなやりとり。「ウェイ、ウェー……」「ウェー、ウェ」「ウェェェイ」「ウェー、エ」…… あるいは、こんな感じの応酬。「私はね、ペイをもらったら火山を見に行くわ。貯金してあるのよ」「火山を見に?」「火山はおかしいなあ」「君はあまり笑わないね」「ええ、私のような性格だと笑うことはあまりなのよ。子供の時だって笑わなかったわ。それで、時々、笑いかたを忘れたような気がするとね、火山のことを考えて涙を流して笑ったわ。巨きい山のまん中に穴があいていてそこからむくむく煙が出ているなんて、おかしいなあ」「君はお金をもらったらすぐ行くの?」「ええ、とんで行くわ。山に登りながらおかしくて死にそうだと思うわ」……

 そうこうしているといま制作をすすめているZINEのミーティングの時間が迫り、わたしはふたりを置き去りにして上裸のまま家を飛びだす。駅の方に向かいながらTシャツのなかにからだをくぐらせ、ガード下や行き交うひとびとの股座をくぐってジャパニーズ・モスト・リーズナブル・イタリアン・レストラン・サイゼリヤ(JMRIRS)に入店する。都内ではありふれたこのファミレスも、わたしのいま住む街にはひとつも存在しない。粉チーズをこんもりと振りかけたミラノ風ドリアの味を口中いっぱいに思いかえしながら店内を見渡すと、マスクすがたのTさんが手を挙げてこちらに居場所をしらせてくれる。ところで、このTさんの名前をめぐって、わたしたちは昨晩さんざんにもめたのだった。発音する際のアクセントの置き場がわたしとわたし以外でちがっており、わたしが彼の名前を発声するたびに、「***さんね」とイントネーションに訂正が入るのだ。そんなやりとりをした翌日に当の本人と会うものだから、自ずと名前を呼ぶ際にへんな意識が表出してしまうのがにんげんというもの。とはいえ発音の答え合わせはこのあとの飲み会にとっておいて、ドリンクバーをなめなめ、冊子の全体の流れや、タイトルなどについてまじめに話を詰めていく。生身で話すってすばらしい。

 「吐きそうさ、ニシオギクボ」と金子鉄夫が歌った(?)街を彷徨してはや30分が経とうとしていた。グーグルマップに表示される営業時間は当てにならず、シャッターの降りた真っ暗な店の前で落胆をくりかえし、駅の北と南をグルグルとさまよっているうちに、Yさんが電車に乗ってやってくる。再会に頬をほころばせながらも、店がまだ決まってないんですよとだらだらと涙と鼻水をこぼし、顔面をグショグショの雑巾にするわたしのスマホが光って、「四文屋は?」というメッセージがQさんから届く。Qさんの放ったクエスチョンマークに沿ってせせこましい小道をすすんでゆけば、見覚えのある路地に突き当たり、長い長いカーヴを踏破して、最後に打たれた点までジャンプしてみれば、そこにはわたしたち全員が着座することのできる四つ足をのばした、巨大なディナーテーブルがワンワンと吠え立てている。わたしはいまこそひみつ道具の出番だとお腹に空いた切れこみのなかに左手を突っこみ、「桃太郎印のきびだんご」を取りだしてよく吠える大口にその一粒をほおりこむ。「夜が消えてしまったら、愛はいったいどこで育まれるんだい?」何ともロマンチックなテーブルの上で、わたしたちは宇宙の法則と生命の神秘について語らい、ビールを飲んで、焼き鳥と浅漬けともつ煮込みを食べた。「星の瞬きを感じとることができなかったら、きみの瞬きにだって気づけるはずがないだろう?」小雨が降りだすなか、わたしたちは家路を急いでいる。「にどと点くことのない電燈をひとつ残らずあつめて、ぼくらの一番星をつくろうぜ」駅前からはいつまでも遠吠えがきこえてきて、しずかに耳を澄ませながら、夜が明けるまで酒を飲み交わす。

    *

 池袋の西方、デイリーで買ったサンドイッチをペットボトルのお茶で胃のなかに流しこんで、わたしはRくんのもとに向かう。10ヶ月ものばし放題だった髪を切るのだ。彼はここ数年来髪を切ってくれている友人で、東京に来てようやく通えるヘアサロンができたとわたしは彼の独立をよろこんだものだった。ものの1時間で肩までのびていた髪を一気に切断し、フレンチクロップ風の刈り上げショートに変身する。これまたべつの友人Kの楽曲提供の話を土産話にもらいつつ、ニューヘアーで颯爽と向かうのはでかい建物のあつまる場所・六本木ヒルズ。ひさびさの美術館だ。先にミッドタウンの無印とユニクロでしばらく切らしていた化粧水と、滞在後期のためのパンツを購入し、ピカピカキレーなトイレで用を足して、ママンの下で友人たちの到着を待つ。あれ、記憶をたどってみるとわたしはここでも何かを食べている。そうだ、今朝コンビニでおにぎりも買っていたのだった。せっかく都内にきたのだから、などと貧乏根性を発揮して外食すればよいのかもしれないが、どうしたって気軽なほうに流れてしまうのがひとのサガ。今宵もふたたびJMRIRSに行って、せめて外っぽい感じでとラムのラグースパゲティ大盛りを食べるのだった。ちなみにわたしはいま、この文章を辛味噌に漬けた馬刺しで黒パンを食べながら書いている。はじめて取りあわせたが、パンと馬肉は意外とマッチするという気づき。

 森美の展示は「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」。×である。「71歳から105歳まで」の「女性アーティスト」を並べたて、それに「アナザーエナジー」と言葉を当ててまとめあげるのはどうなの?と腹を立てる。何かにアナザーと冠した名前をつけることは、アナザーではないものの存在を温存し、増長させる行為でもある。

本展では、絵画、映像、彫刻、大規模インスタレーションにパフォーマンスなどの多彩で力強い作品約130点を通して、彼女たちを突き動かす特別な力、「アナザーエナジー」とは何かを考えます。

と、展示概要には表記があり、アーティスト自身や作品そのものを「アナザーエナジー」としてはいないことが窺えるが、同時に、彼女たちには「本流とはべつの」ちからが流れていることを示してもおり、何をもってこのタイトルにしたにせよ、看過できないコンセプトであることには変わりない。一見、アートワールドにおいて(も)軽視されがちな女性たち──しかもそれぞれ「50年以上のキャリア」をもつ高齢の!──を称揚するかに見える本展だが、ここには、「周縁」を「周縁」のまま再認し、さらには「異端」としてまなざす意識が見出せるのである。

 と文句を言いつつ、ミリアム・カーンのペインティング(滞在中にHQ邸へ来訪したうちのひとりであるMさんは、彼女の絵がプリントされたトートバッグを携えていた!)や、マムスクリーンのシプリアン・ガイヤーンの作品群をおもしろく見た。浅い人工湖にふたりの若者が飛びこんで血まみれになる1分半の映像作品《湖のアーチ》のファニーさや、《海から海へ(オーシャン2オーシャン)》の水洗便所からアンモナイト、駅、電車、深海に沈んだ車両……とイメージと事物があざやかに連接していくさま、《デスニャンスキー地区》におけるスケールのでかさとなぞの大乱闘などが印象的なイメージとして記憶にのこっている。また、座席のずらっと並ぶ展示室に慣れているわたしには、ソーシャル・ディスタンス仕様の空間設計も新鮮だった。

 そんな展示の感想も話しつつ、わたしたちはサイゼリアをでて、代々木公園に向かって夜の散歩をはじめていた。彼らとはいま文芸誌の発行を画策していて、道中その打ち合わせもしつつ、雨がパラっと降りだした青山霊園を突っ切って、表参道から明治神宮へ、お参りをするような精神とはまったく逆の気の持ちようで、東京の地を踏みしめていく。ひさしぶりの散歩だ!とはじめは高揚していたわたしだったが、ふた駅かさん駅ぶん歩く頃には足腰が悲鳴を上げはじめ、日頃の運動不足がたたってからだじゅうが軋んでどうしようもなくなり、目的地まであとひと駅というところでわたしは離脱の叫びを漏らしたのだった。改札前までOとAさんに見送ってもらい、代々木公園駅までビュンと移動し、代々木八幡駅まで向かう。ここまでやってきたのは、この旅のいくつかあるうちの目的のひとつ、自作のグラフィック作品集をK先生に渡すミッションを果たすためだ。

 さて、本日も明かりの灯った腰を落ち着けることのできる場所を探して夜の街をあちこちとさまようのだが、中央線とちがってこちらはお行儀のよい店ばかり。ガラスに貼られたA4用紙に門前払いをポコポコ喰らったので、コンビニで飲み物を買って、東京オリンピックのために設置されたバリケードの見学がてら代々木公園内を散歩しつつ、噴水広場で野外カフェの流れに。水辺のベンチには愛しあう恋人たちのすがたもあり、暗い夜をこのようにして過ごす彼女たち・彼らに、わたしはほんのひとすくいの光を見る。そのちいさな明るさに照らされながら、わたしたちは文化の話に花咲かせ、ここにはいないT氏のかつての色恋話をお土産に、公園を後にするのだった。わたしのゆりかごでもある小田急線にひさしぶりにゆられたのち、どこでもドアをつかって家に帰ると、眼前には陽気に微笑むSさんが座っており、さらなるテンション爆上げミッドナイトに突入する。Hさんの特製カクテル「命の前借り」を飲みつつ、すでにできあがった3人のあいだに座ると、やたらとこれまでのデザインワークが褒められ、とにかく愛のきもちになる。先に作品を通して出会っているって、もはや奇跡みたいなものじゃないか? 滞在時のメモによれば、スペースやツイキャスもしたらしいけれど、あまりおぼえていない。もしやわたしは参加していない? スペースをやっているのを忘れて好き勝手にお喋りしている時間がどこかにあったことはおぼえているが、それは昼間じゃなかったっけ? あ、映画の宣伝ヴィジュアルにおける手書き文字の流行について喋ったんだった! そんな混濁する記憶の海のなかを、エラ・チューブを鼻に詰めこんでわたしたちはどこまでもどこまでも潜っていく。

(続)