凶力メカコロ区

エルガイム、6-8話。ふざけが過剰だ。細かな部分までもおどけの芝居を執拗に挿しこんでいる。決め顔とくずれた顔の落差もすごい。レッシィはこんなにはじめから仲間フラグが立っているのだなとおもしろく見ている。「ありがとう、か。軍では聞けない台詞だな」、いい! またホロコースト的な描写があらわれ、物語のレイヤーがいちまい厚くなった感がある。それに伴ってようやく反乱軍が実態をもって見えてきた感覚。ゼオライマー後に観ているので、時間をかけることのつよさを思う。

3時に置き、これで早寝早起きができる、とうれしがっていたが、たったいちにちで崩壊した。ここ数年でいちばん長い時間寝ていた。許されるかぎり長いあいだ眠っていた。ねむること自体はハッピーなことなので、まあいいかというきもちではある。

今村夏子『あひる』を読みはじめる。文字がでかく、読みすすめやすそう。はじめのほうで宗教という語がでてきたが、彼女が抱えるテーマのひとつなのだろうか。テレビでは芦田愛菜が登場し、映画の宣伝をしているのをよく見かける。彼女の顔が印刷された帯が巻かれた『星の子』は、『こちらあみ子』を読みおえたあとに本書と同時に買い、いまだ積んだままである。


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さいきんつとに思うようになったのは、自分に対する「切り離し」の感覚が、わたしが考えるよりもつよく己に張りついているということだ。かつて労働に自己を委ねてしまっていたとき、わたしは自分が自分でない感覚、離人症のような感覚にとらわれることがよくあった。会社にいる「わたし」はわたしとはべつの「わたし」であり、そこで生じていることはわたしには何にも関係ないと思いこむことで、自らを守ろうとしていたのである。いまではそうした防衛反応が起きていると実感することはほぼないのだが、ときたまその残骸のようなものがほのみえることがあり、それはわたしの外殻として、プラスにはたらいているような気がする。分身感覚というか、たとえば「わたし自身のこと」がその場の話題としてあがっているときに、その対象を、その話をきいているわたしとはべつの存在として考えてしまうのだ。なので、どれだけそこで批判されようが、あるいは褒められようが、わたしとはちがう対象物への言葉としてそれを受けとってしまう。一種のクッションというか、バリア装置がつねに設けられている感じなのである。これにはいい点だけでなく、わるい点もあるのだろうが、自分でその発生をコントロールしているわけではなく、気づいてみればそうなっているので、わたしにはどうすることもできない。そのようにして考えてしまうくせが、離れがたくついてしまっているのである。