熱意のないことの発見

勤務。9時間怒られる。14-23時まで。終電までいのこり、1時半ころ帰宅。腰がおわった感がある。会社にいると、おれは「社会(会社?)人」としてとことん壊滅的なにんげんだということがわかる。自身の「組織人」としてのろくでもなさに徹底して相対する羽目になる。どうしようもないなと落胆する。今後の人生を左右する言葉にもなりそうだが、わたしのしごとぶりに対して「『利益』に対する熱意がない」と指摘され、ほんとうにそのとおりだと思った。7-8時間怒られたあたりでの発言だったが、なんと的確な批評なんだろうと目が冴える思いがした。そうなのだ。わたしは利益に熱意がないのだ。そしてそれをわるいことだと思えないところが、根本的に会社組織や資本主義社会にそぐわないのだ。わたしを教え諭すエピソード(?)として「おれたちは作品じゃなくて商品をつくるんだ」という話もよくされるのだが、わたしはつくったものが「商品」になることをわるいと思っている節さえある。つくったものの価値が貨幣価値なんかに回収されてたまるかと思っている。「ものを見るときの判断基準は『損得』だろう」という話も、とうてい信じられなかった。「えっ、そうだったんですか?!」と無言のままおどろいた。わたしはどうしたって「好き嫌い」なのだ。「権利」の前に「義務」、「自由」の前に「規律」。「作為」を避け、「自然」を称揚するひとが、こんなことをいっている。義務も規律もにんげんがあとからつくったものではないのか(もちろん、権利や自由もそうであるが、状態としては義務や規律に先立つはずである)。こうやってちがいを書き連ねていると、どうしてこれまでやってこれたのだろうとふしぎなきもちになる。

ほんとうは今日はフライヤーの打合せのはずだったのになとHさんに謝罪のメッセージを送り、日をずらして日曜日にしてもらう。給付金の申請書がポストに入っていた。サッポロ一番塩ラーメンに冷凍していたパセリと、ソーセージと卵を入れてすする。辞表の書きかたをちらとネットで調べて就寝。おおきな過ちを犯したときの責任をとったことがない。生の層があつくなる気さえする。

ひと晩明けてべつの発言を思いだす。コロナ禍における弱肉強食の激化にともなって、世界の人口80億人は多すぎるから減らさなくてはならない、という趣旨の語り。このとき、話者の立ち位置は「減らされるほう」に入っていない。ああ、そういうひとなんだなと、かなしいきもちになる。そんなひとのもとにいったいだれがついていくのだろう。とうとうおわりなんだなと思った。思ってしまった。

洗濯機を2回まわし、ひき肉とマッシュルームのケチャップ炒めを丼の具にして食事をし、実家に帰ってもいいかと親に連絡する。じっさいに帰るのかどうかはわからないが、後ろ盾があるのとないのとでは歩みかたが変わってくる。そんなことをしないとうごけない、おれはひじょうによわいにんげんだ。胃痛がする。この胃痛は、しごとをやめることに対してのものではなく、わたしのしでかしたミスに対する反省の胃痛である。よわくても、ひとの心はある。負のきもちを制作にぶつける。夜、シャワーを浴びてスーパーへ。ハーゲンダッツやキムチ、揖保乃糸などを買う。夜ごはん、ズッキーニと豚肉のラー油味噌炒めスライストマト入り、冷奴、キムチ。ホワイトベルグもあける。ブラディメアリも飲む。ホーリーファックのリミックス盤をかけながら料理をした。トータスをかける。大学のときに、わたしに洋楽の洗礼を与えたふたりの先輩のうちのひとりが好きだったバンド。ようやくはじめて聴く。ドゥーメイクセイシンクが好きなら、みたいなコメントを読んだので。たしかにぐっどである。きもちがよい。賃貸の更新日を確認する。秋。どちらにしてもこの部屋はちかぢか引き払うことになるだろう。調味料や割り箸などの細々したものを徐々に減らしていこうと決意する。髪を切る予約をする。1時間ほど家族と電話をする。


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山吹味噌の「コクと香り」、いちどつかってからずっと愛用している、ほかにおすすめの味噌があれば教えてください


佐藤多佳子『黄色い目の魚』を読む。これも大学時代と関係している本で、部室に単行本が置いてあって、それを半分ぐらいまで読んでそれきりになってしまっていたので、先日本屋に行った際に文庫で買ったのだった。部室にひとりでいたときの記憶がぼんやりとからだの表面に浮き上がってくる。あの時間感覚をもっとたいせつにしたほうがいいと思う。

考えれば考えるほど、自分の人生がたにんごとのように感じられる。離人症ってこういうことなのだろうか。そのときからだから離れて崖の底へ落ちていくのはどっちのわたしなのだろう。マチズモの世界はもうむりだよ。おれは敗残兵として生きていかざるを得ない。