上手の舌打ち

トロプリ15話「みのりがローラで、ローラがみのり!?」。かわいさマウンテン。ローラもみのりん先輩もサイコーだ。日記、というか詩を勝手に読まれてキレるみのりんローラのしぐさ・表情がゆうしょうです。ローラ変身への布石として、よい話であったのではないでしょうか。CMでマーメイドアクアパクトがあらわれ、躊躇なくキュアラメールのネタバレをかましてゆくスタイルもウケました。これでその存在をしる世の子供たち、、!

観終えたあと、8mmの古いビデオテープを探したいということで、わたしの寝室、つまりは倉庫を朝から大捜索していきます。いくつもの段ボールの山をかきわけ、なんとかお目当てのものに行き着きますが、それらをもとの場所にもどしてゆく過程で本のそれなりに詰まった本棚がわたしに向かってたおれてき、真正面からその直撃を受けてしまいました。床にちらばる無数の本と、板と衝突して痛むあたま。かなしい朝です。本にもダメージが与えられます。

さいきんはじまったMKRのドラクエ8実況を観ます。当時プレイしていたゲームをこのようにして追体験することはたのしく、リバイバル的消費への手ののびかたが(つくり手としても、受け手としても)よくわかります。そのまま6周年記念の生放送のアーカイブを観、だらだらと日を過ごしてしまいます。放送の後半、ゆーちゅーばーには夢があるというような話題になりましたが、それがいまの10代や20代のひとつの「望み」として光を帯びるのであれば、「革命」への回路だってひらくはずだと素朴に思いました。(このクソみたいな世のなかで)「はたらきたくない」という欲望は、世界に対する恨み辛みに変換できるはずです。


f:id:seimeikatsudou:20210607155109p:plain
399


献立、トマトと卵の酸辣湯風スープ、ひき肉とキャベツの豆板/豆鼓醤炒め大葉盛り。母はレタスと干し海老とチーズのサラダをつくりました。

食後、発掘したビデオをハンディカムのちいさなディスプレイで観ます。丸々と太った小学生のころのわたしが撮った、妹の幼稚園の運動会の映像です。落ち着きのない妹のしぐさにいちいちわらいがこぼれますが、わたしのカメラさばきも大概で、よくいえばメカス風のshakyなカメラワークにもウケてしまいます。すさまじい手ぶれの連続と、被写体への執拗なズーム。とくに妹の描いた絵に対してなんどもズームイン・ズームアウトをくりかえすさまがめちゃくちゃおもしろかったです。「これは(妹の名前)の絵です」とナレーションを入れているのも感心しました。ナレーションといえば、撮影者のわたしが、いまよりもかなりなまっているのもふしぎでした。歳を取るにつれて色が増えるばかりではなく、脱色されていったものもあるということがよくわかります。

字幕を巻いた小指を立てる

HAGAZINEを読んだり詩を書いたりしていちにちをはじめてゆきます。中途までしあがっていたものが一篇書きあがります。これはいまデザインをしている冊子に掲載されるものです。テーマを与えられて書く、というのははじめてに近い経験のような気がしますが、それはそれでたのしさと苦痛があり、おもしろく思っています。

カルディに売っているニチレイのレストラン用カレーにうどんを入れて食べます。辛口が好きなのですが、これは中辛。服に汁が飛ばぬよう細心の注意をはらいます。新しい服をおろすと、すぐに食べ物や飲み物をこぼしてしまうジンクスがわたしにはあります。いま着ている服はべつに新しくないので大丈夫でした。

アジカンなどを聴きながら引き続きテキストを書きます。書けない書けないとまいにち同じことをいいながらゆびとあたまをうごかします。途中で乗代雄介『旅する練習』を読むことに浮気し、窓から差す陽の光が頁の上半分をあかるく染めるのを目にしていると、こんど住む場所はなるべく日当たりのよい部屋にしたいなという思いが心中に湧きあがります。在宅でしごとをすれば、会社員時代よりも家にいることが遥かに多くなるわけで、そのぶん住心地をだいじにしたいと、そういう思考の流れが見いだせます。小説については完読してから触れます。作家のこれまでの作品と風合いが異なる、という印象だけここに書きつけておきます。


f:id:seimeikatsudou:20210607155038p:plain
398


日差しのほか、わたしの部屋の窓からは水の流れる音や鳥の鳴く声がよく聴こえ、ここちのよさを感じます。こうしたところに生活のゆたかさがあるのだとも思います。以前住んでいた祖師谷のアパートの、競馬中継に一喜一憂する中年男たちの談笑や、ベトナム語の陽気な歌声も一種の日々のかがやきと見ることもできるでしょうが、どちらかといえばわたしはいまの環境のほうを好みます。つぎは川のそばに暮らすのもありかもしれません。

献立、鶏とピーマンの焼きそば(ソース味)、ごまだれつけ麺、しそチーズはんぺん。賞味期限とのたたかいのすえ、麺類フィーバーな食卓です。母のつくったサラダも載ります。腹がふくれるとねむけもあらわれ、まだねむるつもりはなかったのですが、いつの間にかベッドで朝を迎えていました。またも鳥のさえずりが耳に入ってきます。

晴れることができない

テキストを書く。つらい。書きすすまないので。全体のあたりをつけ、嘆く。ちみちみと文字を打っては、歯を食いしばる。早めに寝、明日のわたしに任せることにする。料理は米を炊くだけでサボる。惣菜があったので。

めざめ、しばらくブログをめぐる。ひとの生活があると思う。いったいおれはなにを、、となったりもする。だれかと住むということは、ひとの機嫌に敏感になることかもしれない。雨が降りだしたので窓を閉め、一階に降りて朝食を摂る。パソコンに向かい、テキスト執筆に奮闘する。麻雀とか、音楽とか、インタビューとか、アイスとか、ほかのものに意識をとられながら、文字の総数を増やしていく。オウガのペーパークラフトを聴き、めちゃくちゃライヴに行きたいなとなる。

こうしてのんべんだらりとテキストを書いていた所為で、間に合わせようとしていた催しの座席が予約する前に埋まってしまうという事態に直面する羽目になった。予約してからキャンセルするかどうかを判断すればよかった。後悔先に立たず。

夕方のニュースで流れてきた黒い肌をもつ日本に住むひとへのレポーターの質問「日本に人種差別はあると思いますか?」。どんな前提で生きていればこのような質問がくりだせるのか。狂っている。この言を発させたのが番組主体なのか、取材者主体なのか、どちらでもいいが、この素材をそのままOKテイクにし、字幕をつけて放映している倫理が信じがたい。気落ちする。


f:id:seimeikatsudou:20210605072738p:plain
397


血で便器が染まる。こわいなあと思う。

献立、レタスと鶏のスープ、レタスとチーズと干しエビのサラダ。スープは煮干しもつかう。滋味深いおあじ。だしがらも食べる。みなは嫌いそうだからわたしだけ。

なにごともはやめに決めず、ものごとをさきにのばすくせがある。できるだけ自由な状態でありたいという願望。その場その場で決めゆきたい、いきあたりばったり主義。これがいいほうにはたらくこともあれば、足を引っ張ることもある。まわりはもちろん、迷惑するだろう。

norepinephrine noreply

音信不通だったコンペ、作品を受け取りましたという連絡がやっときた。英語で催促するのが億劫だなと思っていたのでよかった。wetransferの相手がダウンロードしたことがわかる機能、とてもよい。

献立、キャベツと干し海老のスープ、牛ニラ炒め、キャベツとツナのすだち醤油サラダ。せんじつの餃子もニララーメンもそうだが、ニラにハマりそう。

ラジオ。1週空くだけで感覚をとりもどすのに時間がかかる。リスナーの存在が放送をかたちづくることがわかる。放送後、見出しをつけ、寝る。

起床早々、せんじつあっぷされているのをしった小泉明郎の新作をゆーちゅーぶで観る。


youtu.be

小泉明郎の新作、原美で体験した地獄がよみがえるようなおそろしさを感じました。映像がついたぶん、具体的な手触りがあって、内臓を素手でつかまれるような痛みと衝撃があります。幾度も画面に映る「城」の象徴性にも思い至ります。音声1ループ冒頭15分だけでもおすすめです

マジでキレてんなと思います。これは原美の展示を観たときの感想ですが、サウンドスカルプチャーから映像作品と化したことによって、質のちがう恐怖がここには刻印されたように感じられます。また、上記のついーとで触れた、「城」という権威の象徴が、「オリンピックのムード」を高揚させる聖火リレーの記録映像にくりかえし登場することは、特筆に値することだと思います。音声でくりかえされる「彫刻」の意味合いにも、新たな含みをもたらす存在としてその建造物は聳え立っています。映像にもわたしの地元の風景が映りこんでいますが、せっかく足を運べる距離で観れたのだから、そのグロテスクさを、生で目に焼きつければよかったなと思いました。


f:id:seimeikatsudou:20210604074146p:plain
396


ティーヴ・ハルフィッシュ『映像編集の技法 傑作を生み出す編集技師たちの仕事術』を3章のおわりまで。読むべきところがとても少なく、期待はずれの印象。なぜかといえば、本書に登場する映像編集者たちは、映画において最も重要なのは「ストーリー」だと口を揃えて主張しているからで、つまりはここでは「編集」もそれに奉仕するようなやりかたでしか語られていないのだ。松本俊夫の洗礼を受けているわたしにとっては、そんな映画/映像観は退屈でしかなく、ペイシングとリズムの話もタルコフスキーの言葉を読んでいたほうがよっぽど含蓄がある。エクスペリメンタルフィルムのことをこのひとたちはいったいどう考えているのだろう? 取り上げられている作品がハリウッド映画中心であることをもっと警戒するべきだった。のちの章に何か見出せればよいが、、

ちゅう/ななつの唇

わたしはあなたの代弁者でもなんでもない。自己の思想や精神を代表するおこないの総体である。フェミニズムを念頭にした作品をつくりながら考えるのは以上のようなことだ。これは外山恒一が政治活動において「正義感」ではなく「被害者意識」にこそ重きを置くことと同義で、つまりは実存主義という話でもある。自己を基底にして、世界と対峙しないことには、運動は持続しないし、徹底もされない。わたしはわたしの拡声器である。

祖母には恋人(?)がおり、20年ほどいっしょに暮らしていたのだが、そんな彼女がわたしたちといっしょに住むことになった理由は、彼がたおれて入院してしまったからだった。コロナの所為でお見舞いに行くこともできず、もうひと月以上経つ。今日、入院する階がかわって終末期の病室へ移ったことを祖父の経験でしっているのだと話す祖母の声がふるえはじめ、その落ちくぼんだ瞳になみだがたまのっているのを見たとき、こういうろくでもない引き裂かれが多くの場所で起きたのだし、今後も起きるのだろうとかなしくなった。

献立、コーンスープ、ミートボールとブロッコリのトマト煮。よいお味。ミキサーをつかえばスープはもっとぐっどになったろうが、洗い物がめんどうなのでやらない。トマト煮はにんにくを利かす。


f:id:seimeikatsudou:20210604074109p:plain
395


食前食後はクライアントワーク。レイアウトのフォーマットづくり。いま勘案しているものではノドの余白が足らなそうということに気づき、すでに投げたもの含めつくりなおしの作業。だいたいの見通しがついた段階で眠気がピークになったので退散、入眠。明日は2週間ぶりのラジオがある。

めざめ、昨日のトマト煮をパスタソースにして朝食。タバスコを入れて味変する。自室にこもり、江原由美子『増補 女性解放という思想』を読みすすめる。「有徴」という言葉をおぼえる。この「徴」は、ガールズバンドにおける「ガールズ」や、女流作家における「女流」といった「しるし」のこと。男性を基準としてまわっているこの世のなかにおいて、女はつねに「女として」位置づけられる。この非対称性が、セクシズムの根源として横たわっている。

「性差があるのだから、平等である必要はない」という論は、一見妥当に思える、しかしそうではない。こうした場面で言われる性差とは、通常、男性基準に達しているかどうかという基準で測られる性差に過ぎず、女性と男性との間にあるその他の様々な差異のほとんどに対しては、そもそも関心を持っていない。性差を問うているように見せながら、女性に男性と平等の処遇ができない理由を探すことだけに焦点を当てているのだ。そのような文脈で性差の有無を問う問いは、女性がどのような力を持ちどのような世界に生きているんかにはそもそも関心を持っていない。「性差は差別の根拠ではない」のである。(江原由美子『増補 女性解放という思想』)

まだ半分も読んでいないが、セクシストに悩まされるひとびとに勇気を与えてくれる書になるはずだと思う。

午後、昨日のフォーマットを確認し、送信。

7999のクリック、その個別的な意味について

アーロン・グジコウスキ『レイズド・バイ・ウルヴス』9-10話。なんやねんこれ、という観終えたときの第一声。シーズン2は観ない。海外ドラマ自体観るのがめちゃくちゃひさしぶりなのだが、いまはこのような長い長いシーズン展開を視野に入れた「ファーストシーズンずっとプロローグ」みたいなものが流行りなんですか。もっとフックがあるならまだしも、本作を観ているかぎり、そんなものにはついていけないですね、となった。巷ではまあまあいい評判なのが解せない。好意的にとらえているひとの熱弁が聞きたい。その語りに心をうごかされたい。

鶏と卵とチーズのうどん、ラー油入りを食べながら観ていた。すこやかな晴天。髭を剃る。シャワーを浴びる。鳥のさえずりが涼しい風とともに家中に入ってくる。髪の毛がめちゃくちゃのびたなあと思う。髪の毛結びマンになるか、ベリーショートにするか迷う。切るなら東京に行ったときなので決断の日はちかい。

献立、手羽先、茄子、あぶらげ、卵の煮込み。醤油酒みりんの黄金コンボでドン。つくるだけつくってねむり、日をまたぐ頃に起きて食べた。よく味がしみていてうまい。


f:id:seimeikatsudou:20210602043814p:plain
394


いいかげんおわらせなくちゃなテキストの執筆。外因的な要請もあるので、今週あたりに片をつけないと痛い目を見ることになる。痛い目は見たくない。とか言いながら麻雀を打ってしまう。おわっている。カスのようなすすみぐあいでテキストを前にウンウン唸っていると、ローラがプリキュアになるというニュースが目に入ってくる。キュアラメール……。かわいさ……。キュアマリンに並ぶ推しキュアになりそう。

テレビではずっと大坂なおみの話が流れており、その言説のほとんどは彼女を責めるもので、気が滅入ってくる。どうしようもないメディア。わたしのついったのフォロイーのなかでも、初期にフォローしたロボットアニメ好きのひとらは保守的な人間が多く、彼らのついーとをながめていてもため息がでる。いったいアニメから何を学んできたのかと暗澹たるきもちになってくる。

トイレの床と便器のあいだのみぞをどうにかしろと仰せつかり、やる。クエン酸水を一面にぶちまけ、放置したのち拭き取り、木工用ボンドで埋め立てる。乾いたら剥がしとり、さいどコーティングする予定。

残像雑念雑菌雑貨

昨晩作品を提出したコンペが、事前の通知も事後の報告もなしにさらっと〆切をひと月のばしていて、そんなんありかよと思っている。受け取りましたの連絡も、数時間で送りますという自動メッセージを見てからすでに24時間以上経っているにもかかわらず音沙汰なし。大丈夫か。不安だ。

このところやけに咳がでる。大丈夫か。不安だ。

自分のさみしさでできたあなぼこをみたすためだけにほかの生きものを飼おうとするのはとても傲慢だと、飼っていた金魚が死んだと書くブログを読んで思った。この話は反出生主義にもつながる。わたしのこの傲慢さを、どのようにして飼いならすのか。ペットや子供よりもまず、自身に向きあったほうがいい。

Zガンダムにおけるライラ・ミラ・ライラの以下の台詞について、自身に浴びせられるろくでもない発言と照合して考えたときに、いろいろと含蓄があるのではと思いかえし、検討する。

ジェリド、油断するな、奴は只者じゃない。……そうか、私は今、あの子は只者じゃないと言った。このわかりかたが無意識のうちに反感になる。……これが、オールドタイプということなのか。

彼女はカミーユの尋常ではないつよさに接し、「只者じゃない」と口走る。撃墜される直前、その思わずでてしまった言葉を事後的にとらえなおし、ニュータイプとしてのカミーユをとらえる際の直感のありかたを、自身のオールドタイプ性からあらわれたものだと実感して散っていく。ここではニュータイプ的な感応と同時に、その内実の至らなさが問題になっている。「わかり」まではライラもカミーユも同一線上に立っているが、「かた」こそがニュータイプとオールドタイプを隔てる分断線になっているのである。

さて、わたしが自身の体験をもとに想起したのは「無意識のうちに反感になる」という部分である。話し手(書き手)の礼を失した発言を受けた際に湧き上がる反感が、もしもわたしがニュータイプであったならば相手に伝わってしまう(いや、相手がニュータイプでなければ伝わらない?)。そうすれば、「わかりあう」ために機能するはずのニュータイプの性質は立ちゆかなくなる。速度の危うさがここには見いだせる。



f:id:seimeikatsudou:20210602043742p:plain
393


階下の洗濯機が立てる水音が心地よい。外山恒一『政治活動入門』を読んで朝を迎えた。文字がでかいし読みやすい文体なので一気に読みおえてしまった。我々団のHPに載っているような内容が、コンパクトかついまの時代性も踏まえてまとめられている。全国の大学1年生に配ったら、多少は世のなかがよくなる機運が高まるだろうか、読みおえてそんなことを妄想した。くわしくはラジオで話す。ここでも何かにつけて触れることがあるだろう。