水没の投擲者

考えでなく考えかたを学ぶこと。これは何においても役に立つ思考法である。ふだんそんなことは意識していないが、あらためてこう文字にしたてると「うむ」といううなずきがあたまの裏のほうでなされる。と同時に、その自己啓発的なひびきに嫌悪のしわが眉間に寄る。軽重が問題なのだ。ということは速度の問題でもある。重ければ重いほど、わたしたちはゆっくりとうごくことになる。のろまになることは、時勢への抵抗者になるということだ。われわれはたやすさに身をゆだねるようなインスタントな生き方から脱却しなければならない。

過剰刺激の状態においては、認識的有機体は刺激の感情的中身を処理することができない。性的不能も同じ因果関係である。/刺激の頻度と拡散、性的刺激に身をさらす速度といったものが、ある点まで高まると、感情的メッセージを意識的に解読し、必要な優しさをもってそのメッセージを処理することはむずかしくなる。われわれの時間は、短く、狭く、収縮している。ゆえに刺激は欲望に転化しにくく、欲望は意識的接触に転化しにくく、接触は喜びに転化しにくいのである。(フランコ・ベラルディ(ビフォ)『フューチャビリティー』)

ここでも速度の問題が語られている。これは読書会で、アガンベンやナンシー、ジジェクなど「ものいうひとら」に向けたクリッチリーの批判(要約に従えば「口を閉じろ」:こうした考え方を称賛するような糸井重里的ゆるふわマインドがひとびとの政治性を奪っている、いわば「考えないこと」を「留保なしに」よしとする思考形態……)に対する批判から転じてSNS批判の話がでてきたときにわたしがひっぱってきたもので、SNSという刺激過多にずっと身をさらしていればインポになり、そこで我慢してちゃんと溜めないと(菊地成孔)、きちんと青筋立てて勃起しないままエネルギーがだだ漏れになってしまうという友人の話に接続された。なんだか下品な話だな。『フューチャビリティー』のサブタイトルは「不能の時代と可能性の地平」であり、本文では不能にインポテンツとルビが振ってあり、帯文には「インポテンツの時代を生き抜くために」の惹句がデカデカと掲げられている。

青筋を立てること。

政治の力において非常に重要なものは、人間の怒りのなかにある。怒りは、受け入れがたく、我慢できないものの目印である。怒りは、拒絶の、すなわち通常の抵抗それ自体では達成し得ないことを達成する抵抗の、目印である。怒りは手に負えない不眠症に力を与える。怒りなくしては、政治は気休めの妥協や職権濫用に過ぎない。(アルフォンソ・リンギス『汝の敵を愛せ』)

SNSがもたらすインスタント性は、思考と行動を奪う。軽いラリーを際限なくつづけるわたしたちは、しらずしらずのうちに息切れし、行動を起こす前に消耗している。そうではなく、怒りを自身のうちに持続させ、それをエンジンに思考し、行動する。反射的な打ちかえしではなく、会心の一撃のための、鈍重な歩みとねばりづよい意志をもってして、それぞれの刺激を背負う。水の上をたゆたうのではなく、水のなかを歩行すること。

だが、すべてを自分の身に引きつける必要はない。そんなことをつづけていれば、行き着く先は発狂、あるいは自死である。

われわれの頭上を旋回する何十億もの紙幣や中身のない意見の数々は、そのまま天上の空虚を漂わせておくことにしよう。利権の泡は勝手にはじけさせ、しぼませておけばいい。重要なのは、「やるべきことをわれわれじしんの手でやる」ことだ。たえず大胆さと信頼を失わずにおこう!(ラウル・ヴァネーゲムコロナウイルス」)

わからずやたちは放っておいて、自己規定をつづけよということだ。状況構築を自らの手によっておこなえということだ。そうした運動のなかで、受信者は発信者のコードを読みとり、ある日とつぜん、わかるひと「になる」。

廣瀬純のひじょうに明快なテーゼを思いだそう。右翼は「〜である人」、左翼は「〜になる人」。右翼が希望(解)を見いだしているその同じ場所に、左翼は絶望(問い)をつくりだす。「2つ、3つ、たくさんのヴェトナムをつくりだせ」というゲバラの呼びかけは、想像的な「ヴェトナム人である」状態に基づいた連帯ではなく、その「〜であることの不可能性」の前で(わたしはヴェトナム人ではない、また、なりようがない、だがしかし)、一人ひとりがそれぞれに「〜になる」ことを要請していた。情勢に絶望-問いを見いだし、その壁を前に、個々が独自に思想を練り上げ、闘争せよということである(以上は『暴力階級とは何か』の読書ノートより再構成)。ここに同じく廣瀬の言葉を並置しておこう。「勉強すればひとは必ず左翼になる」。真理である。

恒常的なオンライン接続の数ヶ月が終了したあと人々は、結合を求めてかれらの住居からアパートから繰り出すことも考えられる。接続的独裁からの解放にむけて人々をみちびくような、連帯とやさしさの運動も起こりうる。(フランコ・ベラルディ(ビフォ)「破綻を超えて:その後の可能性について、3つの沈思黙考」)

このフューチャビリティー(future+ability+possibility:杉村昌昭の語義読解に準ずる、彼はこの語を「未来的可能」と訳出する)をわれわれは構想しうるか? 自己隔離によってもてあまされた時間は、そのための強力なばねとなるのか、それともさらなる独裁化のための増強剤にしかならないのか。それは個々人の潜勢力にかかっている。