2000日間喋りつづけた鳥

Apple Music、ジッタリン・ジンの同タイトルベストが3枚も並んでいるのにそのぜんぶで11-20曲目が配信されてないのはなんでなんだ。どうかおれにサツキマスの唄を聴かせてくれ、、

映画のサウンドトラック制作。ガレージバンドは捨ててaudacityでつくりはじめる。

めんどうな書類作業、ひとつおわらす。

パレスチナの抵抗を「戦争」と名指すことを否定し、「刑務所反乱」だと呼びあらわすハート、信頼できる!となった。

夜、きゅうりのラー油ジーマージャン中華だしかつぶし黒酢和え、玉ねぎと海苔の塩豚骨スープ、鮭と厚揚げと玉ねぎの白だし味噌炒め、ハンバーグ(惣菜)。うまい。

同人会議。かなりひさしぶり。ほかのふたりは体調をくずしており、季節の変わり目を感じる。前号のふりかえりをおこないつつ、「解像度」についての話などを聞く。文化的な会話ができるってすばらしいなと思う。

夜、ねぎ塩豚(惣菜)。つくってでかける。

今日はHに誘われ、半野外(?)でのゆる酒イベント(?)へ足をはこぶ。高校時代の同級生Tとの10年ちかくぶりの再会もありつつ、場に集ったしらないひとらとの交流がいくつも生まれ、かなりいい時間を過ごす。このようなあつまりを地元に帰ってきて経験できるとは思わなかった(わたしは基本的にひきこもって生活をしているので)。のち、会うのがにどめであるKさんに、こんな場所がこんな土地にもあるのだというおどろきにまみれたシャレオツバーに連れて行ってもらい、またも部屋にいい時間の流れるになる。空間を贅沢につかうとはこういうことかと唸らされた。山で摘んできたという山椒を浸からせたジンでつくる、ジントニックもさえわたるうまさだった。

増田の「最近、彼氏として楽しかったこと。」の返歌(?)として投稿された「彼女とやって楽しかったこと」に対する「大事な思い出なんだろうが、楽しそうじゃないんやが」というコメントを見て、かなり衝撃を受けた。「大事な思い出」かどうかはさておき、こんな楽しそうなことないだろ、、とおれは思ったので、、というか、これが楽しくなかったら恋人関係の何を楽しむんだいったい。「ないんやが」という語尾に、そのひとの人生がたたまれている。


▼この記事である
anond.hatelabo.jp


「好きでもないのにやさしくすんなや!!」という語を見た。なんでぜんぶが恋愛に回収されなくちゃいけないんだ。やさしさは恋愛のためにあると思っているのか。クソすぎる。無意識的な排除の論理を感じる。

同人会議で霊臨の話題がでたのでそれきっかけにアルバムを聴く。マジでおもろい。天才のリリック。歌でわらけさすって、文でわらかすのにも似たすごみがあるのではないか。単なる冷笑じゃないころびかたなのがいい。自らを道化とするようなおどけがある。

夜、豚丼目玉焼き・ピクルスのせ。うまい。



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オトプリ4話。咲舞掘り下げ回。ボロ団地とブンビーさんの組み合わせがいい。舞台設定の妙。OPのラストカットには咲舞が追加され、より華々しいものに。舞がグラフィックデザイナーということで、親近感をおぼえる。つかっているソフトが古そうなのが同業者としてはおもしろかった。プリキュアに婚約者がいる、および失恋の危機にあるというストーリーにはあたまをぶん殴られる(それを見てガチでキレてる大友にはさらにショックをウケる、ミソジニーをこじらせながらプリキュアを観ている「オトナ」のつらさ……)。婚約指輪のついた手と、なにもない手の対比、さらにはその手を後者が前者を助けるタイミングで触れあわせる(プリキュア的な「手をにぎる」ではなく、片方の手を両手でひっぱりあげるというアクションなのが効いていると思った、「ふたり」の成立はおそらく変身時までとっておかれるのではないか)流れには、現時点でいちばんのコンテぢからを感じた。担当は藤原良二。本作のモチーフである「時間」を「女のタイムリミット」とかさねるのテキストも巧い、と思った。クレジットで村山功の名を見て納得。

アイキャッチも咲舞ver.になっていて、随所へのリキの入れっぷりを感じる一方、シャドウから逃げる際の咲の走りかたがあやしかったり、なんども再利用されるくるみ・うらら・のぞみのスリーショットの顔にみだれがあったりと、本編の作画にはだいぶ苦しさを感じた。「チームプリキュア結成!」シーンのブンビーさんの顔など、細かい点での工夫はあったものの、止め絵が「気になる」レベルで多いなと思ってしまった。会話がぎくしゃくしているように感じられるのである。

自分のつくったものの上に躊躇なくものを置かれる経験。かつて参加した同人誌即売会にてそのような目にあい、さいきん同様の体験をしたことで記憶がよみがえってきた。雑に生きられるにんげんと、そうでないにんげんが見ている世界はユクスキュルなんかをだすまでもなく、ほんとうにちがっているのだと思う。それは想像力をどこに、どのように、どこまでのばせるかというちがいである。わたしが見落とすものを、彼女は目ざとく発見するだろうし、彼が見向きもしないものを、わたしは目をかがやかせてまなざすだろう。

同人会議において、「解像度」という語は単数的な完璧なる「世界」のすがたを仮構・温存するものではないのかと否定的文脈でとりあげられたが、この複数的な「世界」を前提とすれば、そうしたおそれなく用いることができるのではと思った。いや、そのような認識のもとですべての使用者がつかってるのかよ?と問われたらおわりだけれども。問題は使用自体ではなく、その語の蔓延がかたちづくる空気のほうである。わたしの忌み嫌うコスパ・タイパといった文言がネオリベ的な価値観を強化するのと同様、「解像度」という言葉が、スーパーリアルな「世界」を偽造する。