偉大なるmr.ファック.jrの極限に引き延ばされた6年間

藤子Aのまんが道を読んでいた。無料公開の範囲にしたがって、16-23巻というわけのわからない読みかた。「トキワ荘」という住の形態、アツすぎるよな。野心に燃えた(しかも才能のある!)若者たちが一堂に集って暮らす生活様式、めちゃくちゃロマンがある。

文フリ、参加する気満々だったのだけれども、「夏」に進展があるはずの案件がまったく音沙汰がないので暗雲が立ちこめてきている気がする。あと数日で申込みの〆切。はたして。作品がいくつか売れてくれたら尻ごみせずに申し込めるのだが。

こういうワークがしたかったんだよなといううれしい依頼が来る。ギャラは安いし(いつまで経っても支払われることのないギャラのことを思えばそんなのはかわいいものである)、まだどうなるかわからないがじつげんするとよい。

夜、トマーボー茄子豆腐。うまい。にんにく・生姜・トウチジャン・豆板醤・ジーマージャン・ホアジャオ・塩・砂糖・酢・ハバネロペパー・ウェイパー。ねぎがないのが痛い。もっと辛くていいが、妹以外は辛いものが苦手なのでひかえめな辛さである。

まんが道』にひきつづいて藤子Aの『愛…しりそめし頃に…』の無料公開がはじまったので読みはじめる。おもちれーーーー。読んでいるとやる気が醸成されていく気がする。2日でさいごまで読み切ってしまう。こうやってイッキに読んだ所為かもしれないが、「原稿を落としまくってしまった正月のエピソード」に代表される〈同じ話〉、あるいは「漫画仲間たちと松葉でラーメンを食うこと/チューダーとキャベツ炒めで宴会をすること」に象徴される〈同じ展開〉がなんどもくりかえされるその「反復」こそがトキワ荘トキワ荘たる所以なのだ!と言いたくなってしまうほどの執拗さが作品から感じられた。

妹からニャンたちが窓の外をながめている動画が送られてきており、画面のなかの窓外を見やるとなんと野良猫が蛇とじゃれあっているではないか! 一見マムシかと思わせる鱗の紋様はおそらくアオダイショウの子供のもので、家のまわりにも蛇が棲んでいるのだなあとうれしい(?)きもちになった。幼少期は山のそばに住んでいたので、よく蛇をつかまえて遊んでいた。ヤマカガシなんかも躊躇なくつかまえていたことを思うと、すこしおそろしくもなる。

夜、鶏から卵トマト山椒トッピングの煮干しインスタントラーメン。うまい。名店のパーコー麺を食べたくなった。パーコー麺の名店とはどこなのか。ググるとパーコー坦々麺というのを売りだしている店がいくつか見つかり、ぼんやりと記憶の片隅に留めた(店名をメモるほどの熱量はなかった)。



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夜中に寝室へ向かう際、窓から入ってくる風に秋の気配をはじめて感じた。その所為もあってか、翌日はニャンたちが二匹ともわたしの部屋で昼寝をしていた。熱中症になる!と母はそれをやめさせようとしており、その声でわたしも昼寝からめざめた。ニャンに関心を向けさせるための箒を振るう音がうるさかった。わたしが十代であればほのぼのエピソードのひとつにもなろうが、わたしはすでに三十代、もはやホラーである。

ひろプリ30話。海回。ソラが泳げないというギャップがいいし、スカイランドでは湖の底を気合いで歩いて乗り切っていたというエピソードも熱血バカっぽくてなおよい。海の綺麗さを発見する場面の、「溺れるのに忙しくてまったく気づきませんでしたが」という台詞も光っていた。台詞と言えば、「チームの輪があれば浮き輪はもう必要ありません!」というのもすばらしかった。東映マークのオマージュのような荒波の背景に、ひろプリのシンボルマークを浮かばせて場転する演出も冴えていたし、Aパートラストの筋トレミノトンが無言でポーズを決めるユーモアもサイコー。脚本は村山功、絵コンテ・演出は佐々木憲世とヴェテランの布陣である。

ほか、ツバサが水泳の達人であることが明かされるシーンの、チームの反応が映しだされる場面で、声のかさなりがあるのがめずらしいと思った。全体的に作画も秀麗だった気がする。ラストのたがいに夕景を見やりつつ、手を振りあうソラとましろんの尊さがまぶしかった。ポンポンヘアアレンジのエルちゃんもきゃわわ。EDキュアはキュアプレシャス。映画の新映像も解禁されていた。

夜、唐揚げ(できあい)の甘酢ねぎだれ(自作)、ひき肉じゃがいもいんげんナツメグにんにく醤油炒め大葉がけ。うまい。

過日、敵愾心にみちたまなざしで見られるという経験をして思いだされたのは、会社員時代にわたしが上司に説教を喰らっている場面のことで、なぜ怒られていたのかおぼえていないが「マジで納得のいかない理由」でそのような状況にあったことだけは記憶にのこっていて、そのときわたしは相手の目から目を離すことをしなかった。この経験があったからこそ、自身に向けられている視線に敵愾心があることを理解したので、そうでなければ「ああ、このひとはちゃんと目を見て話すひとなんだなあ」と真逆(?)にその事象をとらえていたかもしれない。発語される言葉の節々にある「棘」がそれを証明していた、と事後的にいま書き記している。そういう視線に晒されることをさいきんはしていなかったので、かなり印象深い出来事だった。