ご機嫌取りの善意のみなぎり

血液検査の結果、異常なしとのこと。安心する。

プリンタの調子がわるく、幸先が思いやられる。複数回のクリーニング、複数回の設定の見直しを経てなんとかワークがスタートできる。

昼、ひやむぎ煮麺。昨晩の炒め煮をベースにスープにする。うまい。

当初想定していたノルマよりもワークがよくすすむ。明日はべつのワークに取りかかれそう。

夜、ひき肉玉ねぎ茄子のトマトソース。わたしは煮麺ののこりを食べる。うまい。

手術後ということで父親がずっと家にいるのだが、日中車ででかけていく元気はあっても家事は何ひとつやらず、ニャンズの世話をいっさいしないにも関わらず「もうすぐでかけるから猫をリビングにしまって」と上から指図(猫がリビングにいるとキーボードの上にやってくるのでしごとにならない)、祖母とわたしが夕飯を食べるタイミングで食事はどうすると尋ねると「母と一緒に食べる」とその帰宅を待つのはいいのだが、いざしごとおえてくたびれた母が帰ってきても自分ではまったくうごかずに料理が自身の前に配膳されるのを待っているだけ(居心地がわるいのか、母が食事のじゅんびをしているあいだはトイレに長居する)……という家父長全開のふるまいに思わずわらってしまう。こんなにんげんを生みだしてしまう「伝統的」な「家族」という再生産装置など、徹底的に破壊されたほうがいい。過日、父が夕食時にYouTubeをテレビで見る所為で(素人女性アングラーの動画である、素人女性アングラーをちやほやする男性ユーチューバーの動画であることも多い、そんなものを夫に見せられながら食事をせざるをえない妻のきもちを考えると我が家のことながらつらくなってくる)自分は好きな番組が見ることができないと愚痴っていたが、父が母の帰宅を待つことでなんらかの「愛(?)」示していることを思うと、皮肉もいいところだなと思う。この家は母がいなくなったらマジでおわる。はやくわたしがいなくならなくてはいけない。それはそれで食事の支度をするにんげんがいなくなるので大変そうではあるが。



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舞城王太郎スクールアタック・シンドローム』(2007)。3篇入りの短篇集。末尾に置かれたソマリアがヤバい、ソマリアがヤバいと事前にいろんなひとから聞きすぎて、なおかつそのソマリアを通院時の相棒にしてしまった所為でぶつ切れで読むことになり、十全にそれを体験することができなかった気がする。付箋を貼ったのは以下の5箇所。

道徳とは結局のところ、他人にどう思われたいか、という問いにおいて良い方を選択するその瞬間にある…。(「スクールアタック・シンドローム」)

これは『スクールアタック〜』を読みおえてから読んだ話だが、『政治的なものの概念』のなかで道徳は「善/悪」の尺度によってはかられるみたいなことが書かれており、これらをあわせると「善悪は他者のまなざしによって定義づけられる」ということができる。あながちまちがいではない気がする。

俺は大学ノートを拾い上げる。膝の上に載せると、その軽さにちょっと驚く。何となくそのタイトルと醸し出すムードが、その普通の大学ノートを鉛にしていたのだ。(「スクールアタック・シンドローム」)

自分の息子がひそかに書いていた学校襲撃ノートをはじめて手に取った際の主人公の反応で、ここでおもさの概念をもちだすのか、とおもしろく思った。描写のさまに、たしかにそうだ、という気がしてくる。

ギャラがどっかにただ消えたんじゃなくて、誰かに誘拐されたんだというふりをすること、僕と二人でギャラのことを心配するふりをすること、僕にギャラを探させて、僕がギャラを探しているふりをしてるだけだと知りながらも知らないふりをすること、そしてそれを長い間続けて、ようやく諦めたふりをして、長い間に培ってきた大きな「ふり」の舞台からすっと降りて、その舞台だけが手を離れた紙飛行機のように軌道をまっすぐに飛びつづけていくのを見送りもせず、目をそらし、そんな舞台なんてなかったことにすること、そこで延々踊っていた二人の時間もなかったことにすること、忘れたふりをすること、こういうことをゆっくりと演ずる長丁場の二人芝居が、たぶんりえには必要だったんだろうと思う。(「我が家のトトロ」)

飼っていた猫がいなくなったあとの飼い主ふたりの行動を主人公視点でふりかえる場面、単純におもしれーと思った。受け入れ難いげんじつを受け入れるにんげんの作法をこのように言語化してみせるところに作家の手腕があらわれる。

白肌色のほかほか宝石にチンポを突っ込んでるんだ。(「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」)

自らの彼女のことを「白肌色のほかほか宝石」と「モノ」として描写してしまうところにわらう。このまなざしは本作のなかで重要な機能を果たしているのではないか?

(…)でね、あんたが言うの。どんなに綺麗な夕日よりも私の人生は美しいんだから、そんなちゃっちい夕焼け空なんて拝んでないで生きようぜって。そんで、私の手え取って、太陽を背にして歩き出したの。そしたら、太陽が後ろで沈みかけてるから、自分の影が長ーく伸びてるやろ?私とあんたのと二つ。あんたが、さあちょっと走るぞ、自分の影を追い越すんやって言って、二人で走るの。そんなん自分の影を追い抜かすとかって無理やって私も思うんやけど、でも私もあんたもちゃんと抜かすの。ソマリアの砂浜の上で、他のみんなとは反対向いて走って」(「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」)

作中、悲惨な目に遭いまくる杣里亜が自身の救世主となった主人公に対して、あなたがどのようにわたしを救ってくれたかを物語るシーン。感動的だ。こういうまぶしさをてらいなく書いてくれるところが舞城のグッドポイントのひとつだと思う。

たしか本書はブックオフンラインで手に入れたのだが、ときたま紙面を黄色いマーカーが彩っていて、なおかつそのだいたいがいい文を目立たせていて、読書中、以前の持ち主に思いを馳せたのだった。最初に目に飛びこんできた箇所は以下。

限界が一気に広がるとき、可能性は無限のように思えてしまう。

唯一、わたしとマーキングする(付箋を貼る)ポイントが被ったのは道徳の箇所だった(「ふり」の場面も最後のくだりが被っていたが、以前の持ち主が注目したのはどちらかといえばその直後の行のようだった)。