辺土返却、万能拒絶、

すこし出歩いただけでこんなにも疲れてしまうのはやばないか?と思う。前日にスクワットした筋肉痛があるとはいえ、話にならないのでは?? まあ話にする必要があるのかという話でもある。華々しくはなし。しかししなしなしくはある。

夢からげんじつに移行する直前、朝青龍のついーとをりついーとしたが、なんかちがうなと思い取り消すという動作をしていた。この「取り消す」という行為をしたくがないために、その前の段階でのろのろ考える、ということをわたしはやっているのかもしれない。だいたいのことは「取り返し」などつかないのだから、そうならないようにふるまうのだ。

味噌汁、タコ鮭サラダ、納豆、揚げちーずそせじで朝食。うまい。アレン・ギンズバーグ『吠える その他の詩』を読む。柴田元幸の新訳版。でた当初に買って積んでいた。いっしょに買った2020年プレミアムカバー版の『不思議の国のアリス』の青い表紙と擦れてしまって、本書のカバーには青みが移ってしまっている。ラジオであつかう内容と被りそうと思い、ひらいたのだった。「I saw the best minds of my generation destroyed by madness」という書き出しの部分だけ、わたしのあたまにインストールされている。柴田は「ぼくは見た」としているが、わたしの場合は「おれはみた」として。見ることから、はじまる。それだけで信頼に値する。

ついったでふらふらしていると、ともだちのともだちくらいのひとのブログにたまたまたどりつき(あるミュージシャンのツイートのリツイートをたどったらあったのである!)、そこで展開されている言葉に、そのひとのまったくしらないいちめんをみるという体験をした。そのひととはなんどか会ったことがあるのだが、身体という表面に浮きでた「わたし」と、言葉のみであらわれた「わたし」の、どちらがより「わたし」なのかといえば、、、、どうなのだろうか。後者、といいたいわたしもいるが、前者にも裾を引っ張られる思いがする。


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労使と労資という語について。労働者と使用者という枠組みではなく、労働者と資本家という枠組みで賃労働をとらえること。資本制国家のまやかしにのらない語法を、きちんと自ら獲得していくこと。格差社会という語もそうであるが、さまざまなレベルで「階級」が隠蔽されているという話である。流通文法に安易に身をゆだねない意志。その訓練のための文学。むろん、文学の効用はそれだけにはとどまらない。ギンズバーグの愛の咆哮も、そのように聴くことができる。山口隆の「悲しみで愛が咲くものか!」という叫びが私の耳のなかで反響している。