跡づける仕草

誰も書いて残すことのなかったものは、おぼえているひとの記憶のなかでのみ生き、その死とともに跡形もなくなってしまう。むかしオダサガに住んでいたとき、サウザンロードという駅前からのびる商店街にちいさな個人経営のスーパーがあり、そこでよく買い物をしていた。名前が思いだせず、必死に検索してようやく「キクチ」という単語に突きあたる。写真がなく、確信はないが、たぶんこの名前だ。あまり見ない魚がとんでもなく安く買えるお店で、東北の内陸部からでてきたばかりのわたしは、ここで多くのはじめて見る魚たちを手にした。100円かそこらで丸ごと1尾売られていたクロソイを煮つけにして食べたときの味は忘れられない。さいきんは魚をあまり食べなくなったが、こういうお店がまわりになくなってしまったからだと思いあたる。検索の過程で川田屋という八百屋の名前を見つけ、ここもよく通ったなと思いだす。トマトがむちゃくちゃ安かった。ひと山150円とかで大きい実がごろごろ買えた。まだ健在のようでうれしくなる。

キクチの思いでといえば、レジに並んでいるときに、学会員のおばちゃんが盛んに選挙活動をしていたことくらいしかなくて、いまのいままで思いだすこともなかったのだが、ふと自分のかつて住んでいた場所への憧憬が胸のうちに起こり、そういえばあのスーパーいい店だったなあ、名前はなんだったけなあとあたまとゆびさきをうごうごさせているうちに、冒頭の感慨におそわれ、書き残しておかねばと思ったのだった。固有名とむすびつけられない体験は、手を離れた風船のようにひとの世をただよっている。それをふたたび地にむすびつけるのが、文字であり、声であり、写真であり、映像であろう。ひとりのにんげんの生きた軌跡は、そのひとだけに回収されるわけではない。


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では、すべてを書き残したり、語り継いだりしたほうがいいのか、という問いに、わたしはややいいよどんだのち、はっきりとイエスとこたえる。言葉にしないこともたいせつであるのはまちがいないし、かたちにのこさないことで守られることだってある。そもそも、すべてを書くことなんていくら時間があったってとうてい不可能だ。それでも、書いておきたいと思うのは、いつかそれを目にするであろうあなたが、自身のかけがえのない一回性と、おなじ質感をした普遍性をそこにかさねてみることのうれしさとおどろきに身をふるわせることがあると信じていたいからだ。わたしは百年後、あるいは千年後のあなたよりもいまのあなたに向けて言葉を書いているが、それは未来を捨て去ることとはちがう。特定のひとに書いた恋文が、時空を遥か隔てたべつのだれかの心を打つように、言葉はめがけた相手とはまったくことなる場所に行き着いてしまうものだ。その誤射こそを、わたしは肯定する。