ひとりのこらずひきょうものたちを殺す

数年ぶりに文フリに行って思ったのは装丁・造本・組版がよくないと購買のちからがでないということだ。とくに組版がだめだと、よさげな執筆陣でも買うのをためらってしまう。上記の三条件がよければテキストがさほどでも買いたくなってしまう。これは書店でも思うことだが、もっていたい本かどうかが買うか買うまいかを決めるおおきな要素となる。中身にとても興味を惹かれる本でも、装丁あるいは組版がだめで買わなかったものはずいぶんある。造本に関しては、ほかのふたつよりはそこまで重要視していないが、すばらしい装丁であるという一点で本を買うことのない代わりに、すばらしい造本であるという一点で本を買うことはままある。すばらしい組版の場合はどうだろうか(ところで白井敬尚組版造形』はいつでるのだろうか)? そもそも組版に気を遣えるひとは装丁や造本に気を遣っている。組版はみっつのうちでもっとも蔑ろにされているように思う。しばらく見ないうちにかなり規模がおおきくなっていた会場をうろうろしながら、自らの見識が以前よりも高まっていることに気づく。「過去の自分の作品がゴミに見えているあいだはまだ大丈夫」と自らにいいきかせている。制作者はつねに高く跳びつづけなければならない。

そして一行(ひとりだが)は渋谷パルコへと向かう。テナント発表の時点で書店が入ってないことにかなり落胆していたので、大した感慨もなくフロアを歩きまわり、ゲームやアニメのちからを感じながらNADiffなどを冷やかしていく。レストランフロアに田中そば店が入っているのがよいなと思った。そのままイメフォに行って『つつんで、ひらいて』の前売りを買おうとするがプレスシートが品切れていて無駄足を踏む。無駄足を踏みつづける人生だった。

パルコに行くまえにシネクイントにも足を運んだ。『殺さない彼と死なない彼女』。構成の巧みさ。編集の突飛さ。画作りのすばらしさ。キャラクタ的な芝居のおもしろさ、と現代邦画に燦然とかがやく佳品であることはまちがいないのだがいかんせん題材が苦手なのだった。生涯マイベスト作品のひとつである『ももいろそらを』ラバーとしては池田愛がちょろっとでているのもうれしかった。ついったでつぶやこうとも思ったのだが可能なかぎりマイナスな言葉をSNSという場に載せたくないと思うわたしはここで書きつける(とかいってマイディスコ来日公演のあまりにも不快な環境にはキレるのだった)。天邪鬼の性質がわざわいして絶賛されている作品に対しては反対からの言葉を残しておいておきたくなるが、小林啓一のスーパーファンとしてはこうした言説はほぼだれにも読まれていないブログで成仏させておくにかぎるのだ。これまでの作品はすべて劇場で観てきているが、『逆光の頃』からの復調を感じとれたのはよかったなと思う。


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あと池袋に移転したコ本やがめちゃくちゃでかくなっていた。裏口からインターホンを押して入る入店の作法も、長細い店の構造自体もとてもわくわくする。移転祝いのきもちもあり、高木こずえの『SUZU』を買った。買っておいてなんなんだが、『MID』に比べて構成や写真自体のあり方がだいぶ劣る本だと思う。いつかのアルファエムでやってたシリーズを書籍化してほしい。そのときこの作家と出会ったのだが、とてもすばらしい展示だった。

コ本やからの帰り、駅に向かうまでの道のりもしくはコ本やに入る直前かコ本やのなかでイヤホンを落とす。改札に入るまえに気づいたので探しにもどろうか迷ったがつぎの予定が迫っていたので泣く泣くあきらめる。つぎはせっかくなのでワイヤレスのやつを買おうかなと思案する。

お酒を飲むと早寝し、飲まないと夜更かししてしまう。健康でありたい。

かならず殺すというきもちを内臓できちんと飼っておくこと。