跨いだゆびの隠しかた

鳥公園『終わりにする、一人と一人が丘』、皮膚についての芝居、剥きだされた部分の緊張、わたしとわたし以外をわけへだてるいちまい、作中で寓意として語られる語の慎重さを一笑にふしてしまうことが観劇のシステムにおいて再演されることの憂鬱、破れやほつれを語る言葉の質感がごつごつしすぎているように感じられ、もっと削ったりして迂回していいのではとおもった。と、観た日に書いた。いま読みかえしていて思うのは、この「ごつごつ」さが生のもの=剥き身として作品自体に作用しており、内容と形式が一致したすぐれた部分だったのではないかということだ。はじめて観る劇団だが、その存在はまいかいカッコいいフライヤーだという認識で何年もまえからみしっており、いつか観にいこうという思いがようやく成就した観劇となった。テキストよりも演出を好ましく思ったので、劇作家が今回かぎりで演出の役割からは退いてしまうというのがざんねんである。新聞家やスペースノットブランクですがたを見受けている花井さんの足指にかかる演出にすさまじい感動をおぼえたことは特筆しておきたい。

このタイミングで足を運んだ最大の理由は劇作家と宣伝美術のやりとりを読んだからであって、先にも述べたように戯曲自体はそこまでわたしには刺さらなかったのだが、この対話が加筆修正の上いっしょにまとまっているということもあって台本も終演後購入したのであった。自分と照らしあわせてみるに、ここまでじっくりとしたやりとりをしてつくっていないので、うらやましいと感じると同時に、こうしたプロセスの開示に可能性を感じるのだった。わたしもひとつの劇団にずっと伴走している身として何かできないかと考える。


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そんな劇団「排気口」の2020年1月におこなわれる新作公演のフライヤーをつくっています


中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』を観た。ものたりなさを感じるささやかな映画だった。そして端正になってしまったとおもった。『plastic love story』や『愛の小さな歴史』がけっこう好きな映画で、そこに流れるやけくそ感さえもただよう拙げなエモーションに感銘を受けていたのだが、今作では巧さが前面にでているようにおもえ、あまりしっくりこなかった。稚拙さに魅力を見いだすのはわれながら身勝手な話だとおもう。ものをつくるひとなら誰だってうまくなりたいものだろうに。

さいきんついったのタイムライン上で同じ名前のひとを生まれてはじめて見かけた。人文系のシンポジウムの発表者のひとで、漢字までもがいっしょなのである。めずらしい名前なのでいつか会ってみたいとおもった。