太刀打ちする前(できないばかりでないことのしたため

退路を断つ癖がある。そうしないとうごけないからだ。立ちゆかない隘路において、さらに自らを窮地に追いやって、「せざるを得ない」状況をつくっていく。背水の陣、窮鼠猫を噛む、追いつめられれば追いつめられるほど、すりへればすりへるほど、わたしは思考と憔悴の熱にうなされ、その摩擦熱がひとつのみちすじを眼前にきりひらいていく。そういう風にしか選択できないことをわたしはうとましく思うと同時に、自らを痛めつけることにたのしくなっている自分のすがたも見つける。

観たい展示がたくさんある。にも関わらず、外出のモチベーションがとても低い。ここ数年こんなことはなかった気がするが、とてつもない鬱期にあるような気がしてならない。まいにち負のイメージにとらわれている。高校受験失敗以来の生の節目を感じる(二度にわたる大学受験失敗も相当かもしれないが、人生ではじめての危機というのは高校受験のときだなという気がする、わたしの記憶にのこっていないことでいえば、深い深いダムに落ちかけたことなのだが)。寒い部屋でひとり、酒をあおってなんとか日々を越えてゆく。生活のひかりを、自らの手によって磨いてゆくこと。


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兵庫の商店街


昨日、今年はじめての秋刀魚を食した(おそらく最後でもあるだろう)。うまいうまいとひとりごちるほどよい気分になり、納豆、柴漬け、鶏と蕪の煮つけとじゅうぶんなおかずで白米を胃袋におさめたあとだというのに2尾もたいらげてしまった。肝にまじっていた真っ赤な寄生虫のサンゴのようなかたちをみながら、白ワインとの相性におどろくばかりであった。

今年は観た映画の本数が少ない。このままいくと50本もいかないんじゃないだろうか。映画を観ない月がふたつきもあったのは映画館に通うようになってからはじめてのことだ。リズムがつきくずされている。いろいろといきづまりを感じる。この不能感、どうしようもなさ、いったい何によって解消できるのか。今日は森達也の最新作『i』を観た。前作『FAKE』ほどの震撼はなかったが、たたかうひとのうつくしさに身震いする思いだった。それとともに、この国のどうしようもなさもまざまざと突きつけられた。こうしたことが、東京の「ローカル」な事象としてとどまっている(ようにしか思えない)ことがおそろしくもあり、かなしくもある。いやな時代を生きている、という気がする。

pinterestで自分のデザインしたフライヤーにピンどめしているひとを見つけた。だれかに刺さりたい、あなたに刺さりたいという、その衝動こそが原動なのだとこころが奮い立った。

言葉にしたいという欲望が高まっている。わたしに起こるあらゆる感情の起伏を、その襞を、その漣を、言語化したいという直線がわたしの中心に引かれている。語り尽くさなくてはならない。わたしはわたしを語ることによって、あなたとともにあることを証すのだ。