あたまのtrans、からだのtrans、

隣人が引っ越すようである。大した近所づきあいもしていないのだが、わたしがこの部屋にやってきたのとほぼ同時に入居してきたひとたちなので、少しだけ感慨深くなっている。たち、といったが彼女らは4人で暮らしている。それぞれヴェトナム語を話し、昼は色違いのビビッドな自転車にまたがり、夜は友人を呼んでカラオケパーティを開催し、日々ゴミ出しのルールを自由に破り散らしていく。今朝もダストボックス──そもそもこのダストボックスでさえ、彼女たちが夜のうちにゴミをだす所為でアパートのまえの通りがカラスの餌場となってしまっており、なんど注意しても改善がなされなかったために今年になってやっと備えつけられたのである、おお、これこそが生活の改善! 闘争こそが生活を変化させると教えてくれる──には回収されなかった粗大ゴミが山積みになっており、最後まで愉快な人たちだなとわたしはわらうのだった。

さて、問題はこの後に引っ越してくるひとである。ヴェトナム・ガールズは正直いって「騒々しい」ひとたちだったけれども、そのやかましさはにぎやかさでもあって、何よりわたしも心置きなく音楽をかけられるのでたいへんよかった。ひとはおたがい、迷惑をかけあって生きていくのだから、ちょっとのことは許しあっていきましょうという塩梅だ(これ、日本の「人に迷惑をかけてはいけない」の対極にあるインドの教えとしてよく見かけるけれど、出典は何なのだろうか)。そのへんをわかりあえるひとが来るといいなあと思う。音楽の趣味が合うひとだったらサイコーだな!!!!! Let’s Party!

てか、さいきんゴキブリがまたあらわれだしたのは隣から逃げだしてきているからなのか???

今秋は生まれてはじめて関西方面に進出しようと考えている。高校の修学旅行で行った沖縄と、物心つくまえの四国を除けば、わたしは西方に行ったことがない。芸術祭を観に、神戸と岡山に行く。どうせ行くのであれば、京都も行ってみたいなと欲がでてくる。そこまで行くのなら瀬戸芸も、とも思うのだが、ひとが多くてつらくなってしまいそうだなと躊躇している。瀬戸芸に対しては、ゴリゴリの現代アートというよりも観光客向けに最適化されたようなイメージがあるのだが、そんなことはないのだろうか(と、思ってざっと一覧してみたがゴリゴリかはさておきわりとおもしろそうではある)。


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コンテンポラリーアート」という枠組みで作品をたまにつくる身として、この「たまに」が有する「不徹底さ・気楽さ」にげんなりとすることもあるのだが、そうしたゆるやかな制作態度と、徹底した思考の両立こそが、、とかなんとか、ただ単にそこまでの熱量がないのだ。いくつかの出力回路をわたしはもっているが、前回の展示で気づいたことの一つは、〈作品と、時と、場の一致〉が「アート」を選択せしめるということである。

いわゆる現代アートのなかで、わたしは基本的にコンセプチュアルアートにしか興味がないので、自らが作品をつくる上でも、作品単体だけではなく、ロジックの複雑性や強度などを担保する「時」と「場」が重要になってくる。これまでの経験に即していえば、卒展には卒展の、ガーディアン・ガーデンにはガーディアン・ガーデンの、自宅には自宅の、というような、場に備わる意味性と、その時期とが作品と密接にむすびついていなければ、おもしろくない=作品をつくる意味がないと思ってしまう。換言すれば、場は作品に先立つ(本当か? 場も作品も、意味の後づけなどいくらでもできるだろう……

「2020」という数字の象徴性に対峙したとき、わたしのなかにはいくつかの作品のアイデアが生まれるが、それを展示する場が思いつかないし、そもそもいったいだれがこんな弱小「アーティスト」の展示を企画するのかとあたまをねじきれんばかりにひねりたおすだけである。先に「熱量がない」と述べたが、その言葉にはそうした内実が孕まれており、べつの回路が選択されるのは致し方のないことなのだと消沈せざるを得ない。〈戦場〉の選定、というよりも「限定」こそが、20代終盤に差し掛かったわれわれの直面する、容赦なきげんじつであろう。いまの「日本社会」に生きていて、わたしは何か「一本」で食えるなどと到底思うことはできないのだが、さりとていつまでもあれやこれやと手をだしてばかりはいられない。かなしいことに、時間は有限なのだ。