選べるショベル

インディゴ地平線について先日も言及していたのに気づかぬうちにまた触れていて、いかほど好きなのかと自問するが40にしぼった精選ソングのなかにインディゴからの選出はなく、いちばん好きなアルバムは三日月ロック、ついでスピッツ、今回新たに聴いたアルバムでは空の飛び方がよかった。

今日は世田谷美術館に行った。隣接する砧公園には行ったことがあるのだが、美術館に足を踏み入れるのははじめてだった。建築がおもしろく、展示室をめぐっているだけでたのしいきもちになった。観たのは「チェコ・デザインの100年の旅」という展示だ。帰るとき、出口のまえのひろばがやけに暗く、鳥目なのもあって歩くことに恐怖をおぼえた。ほんとうに見えないのである。近視で障害者手帳もらえるんじゃないかと思った。

図書館にも行った。閉館までの30分、群像で乗代雄介の新作を何ページか読む。おれはこの作家の書く家族の会話がほんとうにだいすきで、いつか上演でも観てみたいと家に帰ってから思った。明日つづきを読みに行くのもよいが、単行本化まで待つという手もある。


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「つめたい」という言葉を、今年になって2度ほど自身の言動に向けられた。いままでの人生で投げかけられたことのないたぐいの語なので、とても印象に残っているのだが、これはわたしの倫理にむすびつくものだと思い至った。批評的な態度ともいいかえてもいいが、倫理的であろうとするわたしのまなざしが、既成の社会通念(に染まりきったひと)に対して「つめたい」と映るのだろう。それをそのまま言葉にしてしまうわたしの軽率さにも大いに問題があるのだが、というかほんとどうしようもないな、自らのいたらなさにほとほとかなしくなってくるわ。しごとをやめようと思った。会社というシステムにわたしはまったく適さないと思う。語がでかい。独立という対極だけではない選択が、会社という範疇にもまだあるはずである。とはいえ、いまのわたしの位置からは、ジェネレーションギャップのひとことでは片づけることのできない断絶が、もはや覆い隠すことのできない深さとなって目のまえにひろがっていて、どうしようもないのである。漠然とした将来への不安に押しつぶされそうだ。

こないだの記事ではワーホリ行くかとかのたまっていたが、費用を見て到底むりだよと悟った。実家に帰りたい。家賃に悩まされたくない。お金のことで悩まされたくないのに悩まさざるを得ないことがつらい。

みんなはどう生きてるのだろう。どうやって折りあいをつけているのだろう。