あぶない橋の上でおどる(すでに落ちているが

ホモセクシュアルのひとが自らの性的嗜好を明かすことを「カムアウト」とさもとくべつなことのように札づけられているいるのに対して、ヘテロのひとたちが自らのセクシャリティをわざわざカムアウトすることがないことが、「通常」のような顔をして居座っていることの居心地のわるさ。むろん、だれしもが何らかの圧力によってカムアウトする必要などない世界の方がよいし、自発的なコミュニケーションの手段としてのみ為されるのであればそれに越したことはないだろう。自分の発語がなにかの隠喩として作用されうると勘づきながら話すことによって、わたしは他者との距離を素知らぬ顔をしてはかっている。踏みこむ足をもたぬくせに、踏みこんでくる足には敏感なのだ。


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言葉にしなけりゃ伝わらない、ってそれはまったくその通りなのだけれど、わたしの抱える「言葉以前」と「言葉」をかさねあわせることに対する情熱、偏執、拘泥を、潤滑なコミュニケーションという土台のうえに乗っけようとすると、たちまちわたしはちぐはぐしたことをしゃべりだすか何もいえなくなってしまって、であればだまっていた方が身のためだと隅の方でにこにこ口をつぐんでいる。それってどうなのと家に帰って布団のなかで考えたりあたまをかかえたりしているが、そもそもこの関門を突破したところで、その言葉があなたに与える影響に思いをゆきわたらせることの困難さに、ただでさえせまっくるしいのどがつまりそうになる。だから、自らの発言に倫理的であろうとつとめるひとは、話すことよりも書くことを選択するし、他者とおしゃべりをすることからは次第に遠ざかっていく。かなしいね サッちゃん(「さっちゃん」が誤りなのをいましる、原曲に「かなしいね」というフレーズもない、呪いの歌として新たな歌詞がリズムや展開もへったくれもないままどんどんつけたされているさまをみて、そのしょうもなさにわらってしまう、こんな風に話すことができたらどんなによかったか(ほんとうによいのか?

写美にて「至近距離の宇宙」、例年に比べてちいさくまとまっていたのはテーマがまさにちいさきものに対して向いているので当然の感慨。それなりにじっくりみたが映像作品が0なので1時間足らずで観おえる。来月それなりに貯まったエポスポイントがきれるのでオープンした頃になんどか行ったきり足が遠のいていたスカスカさが話題の渋谷modiに行きたい+映画につなげたいが『パラサイト』は満席、なので『ラストムービー』へ。『ポゼッション』もはしごしたいが2時間空きはだるすぎなのでタワレコでフィニッシュしよう、目当てのホーリー・ファックの新譜は入荷しているだろうか、していなかった。

映画を観おえたあと、シネマカリテの地下から地上へと向かう階段を上がりながら、『バタリアン』のエンドロールのやりとりがわたしはとっても大好きで、そのことを思いだした。『アギーレ/神の怒り』的なショットや、あまり内容をおぼえていないが『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』感のあるシーンもあった、とこうして過去に観た映画の名前ばかりが浮かんでくるのは途中眠気のなかへ沈没してしまって、映画を部分として受けとっているからなのだな、この映画に自由さを感じて、寺山の映画に自由さを感じないのはモンタージュの力点の置き方のちがいかな、寺山は堅苦しいんだなと思い至る。

スーパーに寄って帰宅。6種各4切れのゴージャスなおさしみが700円台になっていたのでとくに何がめでたいというわけでもないが迷ったすえ買う。会津の地酒といっしょに嗜む。うまい、、

完全なる日記の形式はちがうと思ったのでやめます。なにとちがっているのか、あらわしたいことをあらわす方法としてです。書くことまでもが惰性となってしまうことに抗うべしということです。凝り固まった階段になるまえに、もっと冒険しなければとわたしは思っています。