astrological facing

夕寝早起きのモード。これだとラジオが放映できなくなるのでどうにかしなくちゃならない。外光のあかるさを得るまではベッドの上で雌伏し、カーテンの隙間からの光にまぶしさを感じる頃合に本をひらく。沼田真佑『影裏』をさいごまで。話の運びに巧みさを感じた。構成とはまたちがう気もする。入り組ませてものを語り、線的に出来事を明らかにするのではなく、後述的に時と場を浮き上がらせること。

逃げまどう飛蝗の群れのあいだから縞蛇の子供が這い出してきた。震災後まもないころのことだったか、営業を休止していた釜石市内のとある銀行のATMを、バールで破壊しようとして逮捕された男の名前が朝刊に出ていた。竿で小突いても蛇の子は全然動じず、わたしは日浅がその男の同胞であることを頼もしく感じた。

視覚的な現在を描写する1行目に、2行目によって回想が付され、3行目に至ってはふたたび現在の動作へともどりながらも、直後の「、」によって回想が接続させられる。この複層的ショットのあざやかさが、シーンの継ぎ目においても遺憾なく発揮されており、きめ細やかな語句の選定も相まって、文の「丹念さ」に感服する。

目指す釣り場所にそそぐ川水の白い迸りが、もうじき見えるんじゃないかとわたしが視線を向けたところに、あたかも行く手をさえぎるような倒木だった。

この「行く手をさえぎるような倒木」が、行く手をさえぎるように文章に置かれている描写も感動した。「視線を向けたところに」という運動のあとに、主述にゆがみを与える記法によって、止め絵としての「倒木」があらわれる。内容と形式が渾然となったすばらしい描写だ。

ほか、読んでいる最中はこんなことこんなことを考えていた。書き写してみれば、上記の「白い迸り」も、精液を暗喩するものとして冒頭に置かれているのだった。


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セバスティアン・レリオナチュラルウーマン』(2017)を観る。トランスジェンダーの受難と、そこからまたふたたび歩きださんとする過程を描いた銀熊賞受賞作だが、あまり評価できず。予告にも使用されている風に逆らって歩いていくカットなどは単体としてはすごくいいのだけれど、主人公マリーナの支えのひとつである「音楽」をバックにでてくるそのあらわれかたに乗りきれなかったり、チンピラ差別主義者から暴力を受けたりする展開とそれに伴う画づくりに「安さ」を感じてしまったりして、どうも差し迫るものがなく、時勢的なセクシャル・マイノリティへの追い風が大いにはたらいているのではと思ってしまった。それはおまえが当事者ではないからだ、といわれてしまえばどうもこうもないが、たとえばファスビンダーの『13回の新月のある年に』のきょうれつさなどと比してみればその差は明らかだろう。「鏡」を軸にした演出は冴えていたように思うが、そこに映るのは「私」であって、わたしはもっと恋人オルランドの存在のつよさを感じたかったのかもしれない。幽霊として画面にでてくるだけでは、そのつながりがわからない。恋愛関係とはキスをさせればいいという単純なものではない。作中ではこのわからなさがマリーナに対する「疑いの目」としても機能するわけだが、そこに観客を絡めとる意図は本作にないだろう。けっしてクライムミステリではないのだから。

マリーナを「彼」と呼ぶ警官と、「お嬢さん」と呼ぶオルランドの弟の対比はよかった。彼らのはざまにマリーナを配し、彼女が黙って彼らの会話を聞きながら目線を移動させている画自体にちからがある。後半に通夜も葬儀にも来るなとオルランドの元妻に拒絶されるシーンがあるが、そうした直接的な差別描写よりも、こうした細部の言動にわたしは胸を突かれる。

ほか、洗車を車内から撮ったシーンとエレベータに「敵対者」と乗り合わせるシーンがあり、ハネケの名をあたまに思い浮かべた。「ネタが途中で割れるのはわるいことなのか?」という問いも浮かんできたのでこれはラジオで話す。こういう普遍的な話題がラジオをする際にはもってこいだ。

原題は『Una Mujer Fantástica』(ア・ファンタスティック・ウーマンの意)。劇中でもかかるアレサ・フランクリンの楽曲から取ったようだが、真逆の題をつけなおすことによる意味合いの変化は、はたして作品にプラスにはたらいていただろうか?

そういう真似はやめてください!

車酔いし、帰宅するなり寝こむ。深夜にめざめ、エイリアン:アイソレーションの実況プレイ動画を完走する。エイリアンの造形、マジで怖い。フェイスハガーのおとろしさ。外があかるくなるまでふとんのなかでだらだらし、妹がこの格好どう?とたずねにきたのをきっかけに寝床を這いでる。

格好といえば、昨日ユニクロにも行って、ユニクロユーのかわいいサマーニットにときめいたのだが、いま服を買っても着る機会がないのよなと手にとった商品を身にあてがうことなくラックにもどしたのだった。店内にはローレンス・ウィナーとコラボしたUTも陳列されており、ちょっとこころをうごかされ、売れ残っていたら買いに行こうかしらなどと思う。こんな田舎のユニクロで、いったいだれが彼の名をしっているというのか、とも。

昼、麻婆豆腐をつくる。ねぎがないので、ひき肉と絹豆腐のみのシンプルスタイル。豆板醤、ラー油、味噌、ケチャップ、粉末中華スープ、胡椒、酒。丼にして妹と食べる。食後、フリルレタスとミディトマトのスープもつくる。粉末中華スープ、塩、白胡椒。白胡椒の缶を振った手を嗅ぐとくしゃみがでた。くしゃみの快楽。わたしはくしゃみがうるさい。くしゃみがうるさいおっさんはよろしくないのでわたしもよろしくない。老年の男は、我慢をすると脳の血管が切れるからくしゃみの音量調整ができないのだ、と伝聞した旨を書いたブログをせんじつ読んだことが思いだされる。まだ老年でないわたしは、そんな感覚を感じたことはいちどもない。先が思いやられる? なお、じっさいどうなのかはしらべていない。


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沼田真佑『影裏』を3作目の途中まで読む。こんなにセクシュアル・マイノリティの話ばかりだとは思っていなかった。真ん中に収録された「廃屋の眺め」は、具体的な性的少数者が作中にでてくるわけではないが、第1行が「結婚ラッシュ」ではじまり、その直後に銀鮒の卵に泥鰌の精液がかかって子が孵化する逸話が配されていることからもわかるように「婚姻関係」のゆがみに視座が置かれ、そこに現社会の発する抑圧に対する意識がはたらいているのはまちがいないだろう。ろくすっぽはたらいておらず、いまの社会が「まとも」とは判断を下さないであろう人物がたくさんでてくるのがたのしい。わたしも、そうであるから。文学が見つめるのは、そうした隅角であってほしい。

表題、いやしい心でわたしに星やハートを送りつけないでください。この文をけっして読むことのない、おまえに、そう、おまえにいっている(読んでるひとはだいだいだーいすき!なのでお気になさらず)。矛盾めいた宣告だ。

群衆の手の数で命運を占う

花を見にゆく。車椅子に乗った祖母らとともに、桜を見る。花の写真を撮る。白鳥が池で泳ぐすがたを見る。風に花穂がゆれるさまを見る。にぎやかな人出をひさしぶりに目にする。晴天。くしゃみをして鼻水が垂れる。ティッシュがないのでそのままにしておく。マスクをしているので、外からの見た目は変わらない。花の写真を何枚も撮る。みじかい映像も何本か撮影する。そのうちのいくつかをストーリーにあっぷする。映像の単位を本とする時代は、さらには写真の単位を枚とする時代さえも、とうに過ぎ去ってしまっているのかもしれない。

サバの水煮缶と厚揚げを味噌と酒と生姜でさっと煮込み、夕食。食べおえ、皿を洗い、寝る。

めざめ、沼田真佑『影裏』を読みはじめる。読みすすめるにしたがって、先に読んだ文章の質感が変化するたのしさがあった。自然の光景をエロティックに書きこむことが、ホモセクシュアル的なシーンの到来をじゅんびし、その予兆を高めているともいえるだろうか。釣りをしている際の「竿を振って」だの、魚を釣り上げたときの「抜きあげられた」だの、語句の選定がいちいち性のイメージを思い起こさせ、土手で跳ね回る魚をあらわす折には「周囲の青草を自身の体の粘液で汚すだけ汚してしまうと、バナナのように体を曲げて空中を飛んだ」とまで描かれるに至っては、である。表題作の半分ほどまで読み、いったん本を閉じる。


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今日のプリキュアは想像力をテーマにしていてよかった。ひとのもつ最大のちから。砂浜で見つけた落としものを親切なひとが防風林にむすびつけておいてくれた、というのはちょっと無理筋ではとも思ったけれども。相変わらず高飛車でわがままなローラがかわいい。おまぬけなところもよいよな、わたしはこういうキャラ造形が好きなんだよな、

ひさびさに買いだしについていく。肉やら豆やら野菜やらの食材を買うとともに、書店にも立ち寄り、乗代雄介『旅する練習』を買う。発売日のころに書店をめぐった際にはどの店にも入荷されていなかったが、しばらく経った現在においてはどうやら売れているようで面陳されており、何冊も台に積まれていた。棚には『最高の任務』のすがたも。わたしのこの購買が、次作の入荷にもつながればよいと思う。その頃にはもうここにいないかもしれないが。

ラーメンも食べにゆく。店の前にずらと行列ができており、換気口から漏れでる香りにも否応に期待が高まるが、あまりおいしいと思えず。麺とスープとチャーシューが調和することなくバラバラに主張していて、ハテナだった。とはいえ、親の金で食べるチャーシューメンはうまい、とすねかじりの本領を見せつけていく(いったいだれに?

フライドおじゃがを食べませう

富野由悠季∀ガンダムⅠ 地球光』『∀ガンダム月光蝶』をつづけて観る。地球光ってそういう意味か! 50話を2時間+2時間に圧縮するフシギさ。テレビ版を観たあとだとあまりのテンポの速さにわらってしまう。あらためて思ったのは、画で芝居がきちんとできていれば、作画の「アラ」は「アジ」になるということで、劇場版らしくないカットがそのままのこっているのが逆に印象的に目に映った。エピソードの取捨選択とつなぎかたもおみごとで、ソリッドでわかりやすいたたずまいになっていたように思う。ギャバンのハッピーなプロポーズシーンをはじめとする新規カットもたのしく観たが、総評としてわたしはテレビ版のほうが好みだったし、すぐれた作品だと感じた。そもそもの「ダイジェスト」という作法があまり受け入れがたいのかもしれない。原作ものが映画化されるときに、原作に縛られるなと思ってしまうことと同様に、映画をやるならテレビ版を抹消してやれ、という心理がはたらいてしまう。焼き直してどうするのか。

気になったのはラストシーンにおけるディアナの指輪の存在で、わたしはてっきりウィル・ゲイブに関連するものだと思いこんでいたのだけれども、本二部作に彼が登場しないことから、それを否定するものとして左手の薬指がかがやきを放っていたのであった。では、ロランが? 隠遁生活に夫婦性を見いだすことはできないけれども? ウィルゲムという戦艦名がのこっていることを、ウィル・ゲイブの存在の証左と見ることもできるが、はたして。テレビ版を観ていない観客にとってはなんのことやらなのでそのスジはないか。

米を炊き、豚キムチをつくり、富野由悠季機動戦士Zガンダム』2-4話。とにかくカミーユ・ビダンがサイコーすぎる。幼いころにスパロボで叫びちらしているすがたを見てからずっと好きだ。自分の操るモビルスーツの手のひらのなかで、母親が宇宙に投げだされて死んでいくのを何もできぬまま見ているだけしかできなかったら、そりゃあ精神も崩壊するだろうよ。ティターンズからともに逃亡を図った父親が、その敵対勢力であるエゥーゴの戦艦に着艦するなり「いいモビルスーツだな、これは!」とそこにあったリック・ディアスをさわってよろこんでいるのがやばい。妻が上官の謀によって殺され、直後に自軍を脱走して敵軍のもとに身を寄せたばかりだというのに、どうしようにもあふれてしまう機械バカ、機械キチガイ性。にんげんってこうだよね! たのしくなる。


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日をまたぐ頃めざめる。もうちょっとねむりたかった。東京のともだちからライヴにおいでよと誘われ、じつはいまこんな次第で……と話す。そりゃあライヴに行きたいよ、おれだって!

そういえば今朝みぞれ雪が降っていてびっくりしたことを思いだした。季節は4月、桜が咲く!

ギャフン鍋をつつくひとびと

ハムチーズホットサンドを食みながらダニエル・エスピノーサ『ライフ』を観、ねむり、日が変わった頃めざめる。菊芋と鶏肉と玉ねぎで肉じゃがをつくっておき、リドリー・スコット(というよりもアーロン・グジコウスキ?)『レイズド・バイ・ウルブス』3話を観ながらツナマヨで白米をかきこむ。『ライフ』はまさに求めていた宇宙船SFスリラーで、密室空間で地球外生命体が襲いかかってくる恐怖と緊張感がていねいにつくられており、『エイリアン』を観たい欲望が満たされたのだった。子供の誕生や、夢にまで見た地球外生命体の発見、無重力下における車椅子のいらない生活など、幸せポイントを前半にふんだんに盛りこむことによって、後半との落差を生みだし、恐怖の加速度を増幅させるのは、単純だが効果的な手法である。いちいち死を悼むカットにクドさを感じないでもないけれど、それもまたひとつのリズムをつくりだしているのだろう。クリスチャン・アルバート『パンドラム』とか、そういう系統の傑作をわたしに教えてください。本作のプロデューサーも務めているポール・W・S・アンダーソンの『イベント・ホライゾン』とか観てみたいのだよな。レイズド〜の方はとくに何もいうことなし。強いていえば、時系列の錯綜(入れ子構造?)はたのしい。

u-nextのラインナップを製作年順にながめていると、大学時代に観た映画のタイトルがつぎつぎに目に入り、10年代アートフィルムはわたしの母体のひとつになるのだなあと感慨深く思った。ミニシアター系映画といいかえてもいいが、ここと、00年代邦ロック、10年代洋インディーロック、00年代後期から10年代前期あたりの漫画、10年代中期の東京小劇場なんかがカルチャー受容の下地になっている気がする。ファッションもおおきな素地なのだけれど、いかんせん年代的なつきあいかたをしてきていないので他のカルチャーのように括ることができない。


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テキストの執筆。何かを読んだり観たりしたことが、そのまま書きすすめる推進力になる。べつにその内容が反映されるわけではない。何かを見、考えることが、何かを書き、考えることにつながる。

健康サンダルを履いてゴミだしに行くと、集積所に着くあたりで信じ難く足の裏が痛むのを感じ、逆に不健康になりそうだなと思った。痛むのは不健康だからだと母はいうが、そんな非科学をわたしは信じない。単にわたしの足の皮が薄いのかもしれない。やわらかいし。道中、農家然としたほっかむりをかぶったおばあさんとすれちがい、挨拶をする。わたしは地域に似つかわしくない風貌をしている。

ぢゅうぢゅういうとる隅のほう

ジャネット・フレイム『潟湖』を読みおえる。言語芸術の自由さにまずたのしい思いがした。ラジオでも話したことであるが、たとえば、「煮たカブを食べるいとこたち」の以下のような場面。

ドットおばちゃんは大柄で、息がつまるほどたっぷりした茶色の目と髪をしていた。かごみたいな靴をはき、正面にさくらんぼのついた帽子をかぶっていた。おばちゃんが頭を動かすたび、さくらんぼはぴょこぴょこはねた。ねえドットおばちゃん、おばちゃんのさくらんぼ。ほこりをはらっておいたよ、取れそうだって言おうと思ったんだけど。ありがと、お利口さんね、落ちたのに気がつかなかったわ。

地の文のなかに会話文が混じり、なおかつそれが複数人ぶん入りこんでいる。たかだか4-5行の範疇で、このように自在にテキストの発される所在地をうごかすことができるのは、それがテキストであるがゆえである。あるいは「ドシー」の書き出し部分。

踏むのは影だけね、とドシーが大声で言いました。まっすぐな金髪の小さな女の子たちも、踏むのは影だけ、とおうむ返しに叫び、二人はうんと気をつけてぴょんぴょんはねたりスキップしたりして三ブロック進みました。

第1文で「ドシー」という女の子の存在が明かされ、第2文では彼女の大声を聴く「小さな女の子たち」のすがたもあらわれるのだが、その直後に「二人は」とでてくるので読者は混乱することになる。「おうむ返しに叫」んでいるのは「女の子たち」なのだから、ここには少なくとも3人のガールがいるはずなのだが、なぜ「二人は」なのか。「三ブロック進」んだのはドシーの声を聴いていた「女の子たち」2人だけなのかと次の行を読んでみると、「そこで疲れて、そして忘れてしまい、角の垣根のすきまからマリゴールドを摘もうと立ちどまりましたが、ドシーにしか届きませんでした」とあるので、その線はない。たった2行のうちに人間の数が1人から3人以上になったかと思えば2人になることができるこの自由さ。文章っておもしろいなあと、単純にたのしくなります。ラジオでは明かしてしまいましたが、ではいったいここには何人の女の子がいるのか、というのはぜひ本書を手にとって確かめてみてください。

ラジオで触れていないよかった箇所にも言及しておくと、先に挙げた「煮たカブを食べるいとこたち」のラスト付近、煮たカブがきらいな主人公が、これまで「どうしても理解できなかった」いとこたちと食卓を囲んで「煮たカブを食べた」晩の会話。

夕食のあと、私はメイヴィスに言った。あたし、新しい寝巻きを持ってきたの、ふかふかの裏地がついているのよ。寝るときにはひらひらのついたガーターをドアノブにかけるの。うちには牛がいるんだよ。うちの物干しはここのと違ってくるくる回らないの。この言葉の意味、知らないでしょ。そしてメイヴィスの耳にある言葉をささやくと、知ってる、と彼女は言った。あたし、言葉をたくさん知ってるんだから。
 メイヴィスと私はすごく仲よしになった。

コードの共有化である。「とても身ぎれいでおとなしくて」「汚い言葉を使ったり駄洒落を言ったりもしな」い、「私」とはまったくちがう生活をしているいとことのあいだで、合言葉が交わされる。それが通じあったことを合図に、私はいとこと「すごく仲よしになった」。なんと感動的な光景だろうか。つまりは「『アメリカ映画は見たことがないの』とわたしは答えた。すると、アンナが軽蔑したようにわたしの顔を見たので、『タルコフスキーの映画が好き』と言うと、アンナの態度が急に変わって、熱い友情に満ちた表情をわたしに向け、最後にはアイスまでおごってくれた。(多和田葉子『旅をする裸の眼』」みたいなことである。リンギスのいう「共犯者」の発見。こういう出来事を、わたしは人生に追いもとめている。


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ラジオ。それなりに密度の高い放送ができた気がする。テーマを事前に割り当てることができたのがでかい。これは今後もつかっていきたい。はじめる前は90分におさめようと考えていたのだけれども、けっきょく120分くらい話していた。ひとが来なくてもちゃんとしゃべれるようになったのもでかいのでは。

ブログに「富野作品マラソン」のカテゴリを新たに設け、通覧しやすくする。こうやってふりかえってみると、この間にも「書く」意識がずいぶんと成長したのだなと思った。はじめに観たダンバインなんて何もいってないに等しい感想ばかり。観てきた5作品(ダンバインエルガイムイデオン、ザンボット、ターンエー)のなかでは、いちばんよい出来だと思うのだけれども。強度としては、ザンボット。好きなのはターンエー? イデオンは劇場版を観たらまた評価が変わるかもしれない。エルガイムはロボデザNo.1。

毟られエキサイティン

富野由悠季∀ガンダム』47-最終50話。ソシエ、、とにかくソシエ・ハイムに思いを馳せる。おれはソシエ・ハイムのためにものをつくろうと決めた。この世に生きる、あらゆるソシエ・ハイムのために……これまでずっと諌められる側だったソシエが、ジョゼフを諫めるすがた、これまでずっと想いつづけていたロランを、最終決戦のあとにたったひとり迎えにいくソシエのすがた、姉のキエルとディアナが仲良さげに会話する横で、座席を運転席側に移動して用もなくロラン、と声をかけるソシエのすがた、とめどなく涙をこぼしながらロランとキスをするソシエのすがた、自転車で山を駆け下り、ロランの思い出の品である金魚のおもちゃを川に投げ捨てて叫ぶひとりぼっちになったソシエのすがた。50話という「歴史」とともに生きたことの厚みが、そのそれぞれに深いかげをつくり、それがそのまま、わたしに刺さるするどさになる。劇場版はソシエのことを考えながら観ようと思った。

再登場の魅力について『クイーンズ・ギャンビット』を語る際に触れたことがあったが、本作においてもそれはよく機能していて、ディアナのもとに帰順する地球組のディアナ・カウンターの面々や、改造機で特攻をしかけるコレン・ナンダーの「勇者」ぶりは、観ていてきもちが高まるものがあった。また、最終決戦のハリーやギンガナムらの活躍ぶりをながめ、「わけのわからない台詞をいいあってたたかっているさま」がわたしは大好きなんだなあと思った。これはわたしが富野作品を好きな最大の理由かもしれない。既成の枠組みを逸脱した、独自のコミュニケーションがここにはある。それは、詩的言語の交通と言い換えてもいい。つまり「愛の可能性を最も短距離に結ぶ滴り」(岸田将幸)である。

49話「月光蝶」において、これまで礼儀正しい人物として描かれてきたロランが、自らの子を身篭ったフランを残してヒロイズムに生かん(死なん)と単騎出撃するジョゼフに対して「馬鹿野郎が」と汚い言葉を吐くすがたも印象的だ。戦争がそんな「お遊び」でないことを、宇宙での戦闘を経験し、自らの手で人命を奪ったロランはしっている。一方のジョゼフが地球残存組であったことも効いているすぐれた場面だ。

エピローグのキスシーンについて、何よりも刮目すべきなのはディアナをその後景に置いていることの凄みだろう。目を背けさせているのも泣かせるというか、そこで起きていることの複雑さを増幅させていて、ひじょうに印象的だ。画で物語るとはこういうことだと唸らせられる。姉キエルとしてずっとソシエのそばにいたディアナは彼女のロランに対する思いをもちろんしっているだろうし、そんなふたりのあいだを裂くような自らの行いの残酷さもじゅうぶんに理解しているだろう。別れのあいさつの場面で、自らは表にでずに車のなかで待ち、わずかながらもふたりの時間を設けてやる「やさしさ」のしぐさのひとつとしての「顔を背ける」。ここに走り去っていく車に「背を向けている」ソシエのカットがつながれるのもキレている。おれはつらい。頰を涙がこぼれる。シーンを見返してみると、ロランからソシエに顔を近づけている。そうだよな、ソシエから近づけることなんてできないよな。きっと、ちゃんとした告白もしなかった、できなかったのだろう。おれはつらい。胸が痛い。ここに台詞はない。芝居が、画が、すべてを語る。エピローグ全体を通して台詞がほとんどないことが、シーンにより強度を生んでいる。「ディアナさま。また、明日」。余韻の深さはこれまで観てきた富野作品で随一かもしれない。「月の繭」!


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リドリー・スコット『レイズド・バイ・ウルブス』1-2話。「エイリアン:アイソレーション」の実況プレイ動画を見てふくらんだエイリアン観たい欲を契約している配信サービスでは解消することができず、それが作家に転化して観ることとなった。あんまりおもしろくない感じ。imdbで7.6ってマジ?みたいな。そもそもの視聴者層とのズレを感じる。妊娠のアウトソーシングという想像力、まぶたをブチるアクションなんかはいいなと思ったが、大味の画づくりの連続で観ていてちょっと倦むものがある。テラフォーミング×創世記の世界観は『シルバー・グローブ』のことを思いだしたが、あちらのほうがずいぶんと好みのつくりだった。これからおもしろくなっていくのだろうか?