ビョー線のラァヴ

父親のすがたをみていると家父長制ははやく滅ぼさなくてはならないとつよく思う。さまざまなフィクションやげんじつのなかで「わたしはあなたのママじゃない」と怒る妻のきもちがよくわかる。ぜんぜん話はかわりますが「おまえがママになるんだよ」ってめちゃくちゃいい台詞ですよね。はじめて目にしてからずっと忘れられずにあたまの底にこびりついています。

落差。

ブルダックポックンミョンを豆乳+チーズ入りでつくってリベンジ。水でつくるよりぜんぜんいけましたが、翌日おしりが燃えました。それもにかいも。にかめのほうが激痛でした。むろん、当日は胃に熱が感じられました。ダメージインザボディ。

昼前に起床。チーズトーストを焼き、そせじと目玉焼きを載せます。あまっていたりんごもふたかけ食べます。せんじつ注文したげろかわお財布も郵便受けにとどいており、ほくほくしています。テレビをつけると『エール』がはじまり、福島の訛りが耳をみたします。はじめて観ました。方言放送をラジオでやってみたいなと思っているのですが、その気分が高まりました。


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運動しなくちゃと思ったので、家のなかの階段を走りながら10往復しました。たかだかそんなうごきだけで肺が悲鳴をあげています。老化を感じます。これからまいにちやります。洗いものをし、シャワーを浴び、水道代を払いにでかけました。家をでてしばらくすると雨が降ってきてきもちが塞ぎますが、これで東京時代の公共料金に関しては精算がおわりました。すっきりとしたきもちです。

ジョー・コーニッシュアタック・ザ・ブロック』を観ました。おもちれーー! 宇宙から到来したエイリアンvs.団地のワルガキども! 団地育ちピープルとして、さいしょからさいごまでサイコーのきもちで観ていました。団地は団地の子でなかよくなるんですね。そこに同じ場所に住む同士の結束感が生まれる。かといって、自分の身をふりかえってみると、あの頃の友人たちとはいまでははなればなれになってしまっていますね、、それはさておき、ニック・フロストもでていてグレッグ・モットーラの『宇宙人ポール』的なノリ(本作のエイリアンはバンバンにひとを殺しますが)もあり、こういうたのしさをもった映画はひさしぶりに観た気がします。

こちらのほうが古い──といっても2011年の映画──ですが、同じ貧困層のヤングギャングたちを描いたラ・ジリ『レ・ミゼラブル』にも通ずるような社会性もあって、そこもおもしろく観ました。ただ、直接的に言及してしまう語り口については議論の余地があると思います。しらべてみると、監督は『アントマン』の脚本も書いており、びっくりしました。マーベルでわたしが唯一劇場で観たのが『アントマン』です。まあまあおもしろかった記憶があります。ほかは「X-MEN」のなにかを金曜ロードショーで観たことがあるくらいです。だからアベンジャーズの盛りあがりは傍目でながめていました。

今晩は春巻きをつくりました。具は、豚バラ、舞茸、オクラ、大根の皮、生姜をそれぞれちいさく刻んだものに、大葉とチーズをくわえました。味付けは、ウェイパー、塩、黒胡椒、カイエンペパー。乾燥小海老もぱらぱらと。生姜をきかせるのがポイントです。ほうれん草入りオムレツもつくりました。どっちもちょうおいしかったです。この技術、どうにかしてお金に変えたいものです。宝のもちぐされという気がしています。

ぬまちの壺の膚を焼く

ヴァレリー・ミュラー×アンジュラン・プレルジョカージュポリーナ、私を踊る』を観た。とりあえずついーとの引用。

ポリーナ、私を踊る、原作に経済の問題が加味されて貧困女子成り上がり/上がれずストーリーみたいになっており、その翻案を興味深く観た。父親のクライム的なバックグラウンドと、師であるポジンスキー(髭がない!)が意味わからん存在になっていてウケる。スポーティなジュリエット・ビノシュが新鮮

あらゆる原作ものに関して「原作に忠実であること」はマジでどうでもいい、むしろ悪だと思っていますが、これは原作のほうがおもしろいです

わたしはバスティアン・ヴィヴェスの原作を読んでおり、作品単体を観る目とはべつに、比較する視線も映画には注がれる。作品の出来としてはまあぼちぼちで、観て損したとは思わないが、もとのものと比べるとかなりの改悪だったのではと思った。原作にない要素として、おそらくは犯罪のような業務で金を稼ぐ父と、娘をコントロールしようとするヒステリックな母という「こわれた家族」のモデルを導入して、なおかつ格差社会の反映か「貧しさ」の属性を与える。その代わりに、原作の根幹にあった主人公ポリーナの師であるポジンスキーの存在感をかぎりなくちいさくし、クラシックバレエを端緒に、コンテンポラリーダンスや街のひとびとのしぐさ、自然のすがたに触れながら、ポリーナ自身が「自らの踊り」を見いだしていくことに主題をうごかしている。それはそれでひとつの「成長物語」の枠組みで作品を語りなおすことではあるのだが、原作を抜きにして考えたときにさえも、さしていい出来になっているようには思えなかった。ともに原作にはないシーンだが、家にギャングが乱入してくる場面や、ちょっと卑俗さのあるバーのシーンなど、節々にどうも安っぽさがある。ポリーナの遅刻を待つシーンや、父の死といった、ところどころの展開をつくるための要素も、取ってつけたようなものとしてわたしの目には映ってしまった。

脚色はコンテンポラリーダンサー/コレオグラファーでもあるアンジュラン・プレルジョカージュが主に担当したようであり、がゆえに「ダンス」が前景化したのだろう(YouTubeでちらと振付作品を観たが、それはとってもおもしろそうである)。なので、ラストのダンスは見ごたえがあるし、いわゆるオーディションの場で、ポリーナの踊りを見つめる審査員の顔から舞台発表に切り替わっていく編集もカッコよかった。原作においてももちろんダンスはおおきなモチーフではあったが、その核にあるものは愛憎の入りまじったポリーナと師・ポジンスキーとのつよい関係性であり、それがダンスを通して描かれていたようにわたしは思う。映画においてそのリレーションシップはほぼ消滅しているといっても過言ではないのだが、なぜだか申し訳程度に描写されるので、映画のポジンスキーはクライマックスになぜか再登場する謎の人物に成り下がってしまっている。謎といえば、ポリーナの父親がまったくもって不可思議で、原作にはそのすがたすらでてこなかったのだが、映画では波乱≒ドラマを起こすための駒として娘の背景として横たわることになる。父親のまなざしは原作ではポジンスキーが担っていたが、それもこうしてあらたな登場人物に奪われてしまっているのだ。それがよくできた改変であったらいいのだが、まったくもってそうは思えなかった。愛の物語から、自分探しの物語へ。そうした転換が図られていた。


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アムもレッシィもかーわいい!


エルガイム、19-22話。とにかく22話「クワサン・オリビー」がすばらしい回。第1話で主人公ダバの口からたったのいちどだけ言及された義妹・クワサンが洗脳状態で初登場し、彼女が統率する商船に反乱の兆しがあらわれ、しまいには敵方アシュラ・テンプルの新武装としてめちゃつよ兵器バスターランチャーが初登場するてんこもり回。反乱も、亡ぼされた故郷の歌をひとびとが口ずさむことによってはじまっていくこころゆさぶる展開であり、それを遮る銃弾も容赦なくひとの命を奪っていく。逃走する妹を追うダバと、それを阻むギャブレーの戦闘シーンも、ロボット同士ではなく思念的な演出によって描写していて、胸が高鳴った。ダンバインのオーラ力やガンダムにおけるニュータイプもそうであるが、思念体によるやりとりは観ていて感情が高揚する。そこにはふだんよりも濃い台詞がある。富野作品のいちばんのつよみはなにかと問われれば、それは台詞のつよさではないかとわたしは答える。

22話に至る展開も、「強制収容所」という語によって表象される資源採掘惑星における蜂起が描かれていたりと、いよいよ反乱の波がつよく打ちはじめた。ダンバインが冷戦を下敷きにしていたように、本作は明確にユダヤ人差別・ホロコーストをひとつのモチーフにしている。また、「裏切り」もおおきな特徴のひとつになっている。アムも、レッシィも、ハッシャも……と主要な登場人物がもといた組織やそのとき所属していた団体を裏切るし、「反乱」自体もひとつの裏切りと思えば、つねにそのムードが作中にはくりひろげられている。反骨精神がからだに流れているわたしにとって、これはひじょうに興味を惹くつくりである。全54話のうちまだ半分も観おえていないのだが、どういう帰結を見せるのかいまからたのしみだ。

けいけん離脱

自身が自身のアートディレクターであること。会社員時代は決定権を相手に手渡すことが多かったが、フリーになった場合はある程度自らの主張をそこにねじこまないといけないのだろうかと思った。インデザに触れはじめたころ、依頼者が連れてきたイラストレーターの絵を勝手に加工してもめたことがあったが、ああいう我はずいぶんと社会によって丸めこまれ、折れることが多くなってしまったのでは、と感じている。たたかおう。自分のつくったものではなく、よいものをつくることにこだわれとは当時の上司の言葉だが、これはその通りだ。

プリキュア起床。アメイジングお手当てという必殺技のネーミングに衝撃を受ける。アメイジングお手当て! つかいたくなる。題名のない音楽会がはじまると思いきや、仮面ライダーがはじまり、しまいには戦隊ものまで。いつの間にか放送時間が変わったのか。子供たちの起きる時間帯が遅くなっているのだろうか。どれも数年ぶりに観た。30分の制約でどうドラマを展開させているのか。ピンチと解決。勘違いと真実。

それぞれがそれぞれの時間に家をでてゆき、ひとりになる。戸田ツトム×鈴木一誌『デザインの種』を読む。こっちにきてからちょろちょろつまみ読みしているのだが、どの頁も含蓄にとんでいておもしろい。たとえばこんな箇所。

T「ITかなごみか」は、「紙の触覚性を必要とするか、不要とするか」の差でしかない。語源的には、マテリアル、マターナルは〈母的なもの〉、自然と物質のふたつは通底している。紙が自然として見えることと、物質として見えることのあいだを、デザイナーとしてはこじ開けたい。

Tは戸田ツトムをあらわす。アルファベットひと文字で発言者を示すこのちいさな技にもひかるものがある。ブックデザインは鈴木一誌×山川昌悟。書体は太め、サイズはちいさく、うるさくないが、ひと目で誰の発言かわからせる。むろん、内容も濃い。環境への視座がある。浅瀬でパチャパチャやっているわたしなどはその洞察の深さに戦慄すらおぼえる。ちゃんとやるとはこういうことだと、みひらきに立ちならぶ文がそれぞれに示している。


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見た目もラブい、しゅうまいちゃん、ダイアログがふっかつしたらパオズ推しでいこうかな、なんでも包んで熱してしまえ、ギョーザやしゅうまいは包子っていわないのかしら、サモサまでぱおずにしてしまう魂胆


夜、買いだしに行き、厚揚げのチーズひき肉長ねぎ餡(?)かけ、白子のバター醤油焼き、インスタント味噌汁。うまみちゃん! たまに筋トレはしているけれども、こんな生活をつづけていると、太りそうでこわいわ。

ライフル銃ください

ゴミをだし、洗いものをし、掃除機をかける。ソファで昼寝し、制作のための手書きスケッチ。つづけてインデザで実作業。リハビリテーションリハビリテーション。細部の詰めをどこでフィニッシュさせるかに難儀する。疎密のバランス。日が暮れてきた頃、白菜を刻んで下敷きにし、焼売をフライパンで蒸していく。黒酢、胡椒、ラー油をお好みで。ベリうまい。うますぎてビールをあけてしまった。何が禁酒か。ロング缶1本でへべれけである。作業をつづけるも、アルコールの効果かねむたくなったので自室に退却する。22時台には没。

8時前くらいに起床。このくらいしっかりとねむれると心身のもちようがちがう。おれはまいにち10時間ねむりたい。どこでおわらせたらいいのかわからんくなっていたグラフィックを見かえし、一点修正して完成とする。寝ることが作品の完成のための最後の一手になることが多い。間を置くことの有用性。文字の場合もいっしょで、このブログも書いてからあっぷするまでに時間を置くことで、補正がはたらく猶予を設けることができる。SNSにはそうした推敲の時間が排除されてしまう構造がある。母と妹がでかけるのを見送り、べつのグラフィックの制作にとりかかる。1月なかばくらいまではデザインでおまんまを食っていくための気構えというか、体勢をととのえる時期になるのだろう。本格的にやっていくのはそれ以降になるはずだ。どのくらいの時間でどのくらいの作業ができるのかを身体化させていくこと。これは会社員時代にもよくつかめなかったことのひとつだ。そんなんでええのかねと思いつつ、そんなんでもいい社会の方が幸せだとも思う。ラジオの開始時間を22時「頃」にしているのはそうした意味合いもこめている。待ち合わせの時間もアバウトにする。競争・勝敗・効率のネオリベマインドには反していきたい。

KEXPの動画を流しながら作業している。今朝はステラ・ドネリー→ワイズ・ブラッド→エンジェル・オルセン→モーモー(モルモル?)。MorMorははよう来日してほしい。わたしが東京にもどったあとあたりで。昼食はあまった焼売のタネをハンバーグにしたものに、スクランブルエッグとプロセスチーズをつけあわせて白米といっしょに。うまい。タネの味気が濃いので卵には何も足していない。文字/ヴィジュアルのうち、文字の作業をすすめつつ、夕飯を何にしようか考えはじめる。


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つくったのは冷凍していた豚肉と大根の葉と皮を、赤とんとめんつゆ(?:冷蔵庫にあったなぞのつゆ)で煮こんだもの。早めにつくって冷まして味をしみこませてゆく。制作のほうでは、これまで予算がなくてほとんど携わることのなかった特殊印刷や特殊加工の知識を急ピッチで脳にたたきこんでいる。会社員時代、印刷所に出向くことはそれなりにあり、そこでの経験から知識を援用したいものだが、後半の年月は髭が理由でほとんど社内におしこめられていたためにたいした知見がない。セクハラかつパワハラでしかないクソのような話だが、そうしたクソが跋扈するのがいまの世なのである。せめて自分のまわりだけでもバッコも跋扈もばこばこ排除していこう。「バッコ」とは東北の方言でうんこのことである。

勇敢なる寒波の将来

舞城王太郎熊の場所』を読みおえる。ラジオでもろもろ話してしまったのでここではあまり触れないが、やはりフェラチオ村上春樹をむすびつける手腕はおそるべきものがある。舞城の魅力についてはそのすばらしき同感者・友人Oをゲストに呼んで放送するのアリでは、と思っている。ゲスト回は飛び入り制じゃなくて事前告知してイベント制にしたほうがよい気がしている。排気口のWSがおわったら総括イベントを企画するのもいいのではと思っている。WS自体というよりはそこで書かれたテキストを中心に!

90分拡大版ラジオののち、排気口のツイキャスにコラボ参加する。機材トラブルで迷惑をかけつつ、90分話したあとだったのでまわらぬあたまと舌でぺちゃくちゃとしゃべる。ラジオをやりはじめたおかげか多少はトークできるようになっている錯覚に陥る。どうですか、みなさん。もっとがんばります。コラボ参加するためにツイキャスにも登録したので、今後は無化報ツイキャス出張版を開催する、かも?

起床。炊飯。焼売のタネづくり。みじん切りにした玉ねぎとひき肉をボウルに入れ、醤油、酒、中華スープのもと、砂糖、オイスターソース、カレー粉、片栗粉を加えて混ぜる。昨日しこんだ鶏があるので、これは明日のためのしこみ。このブログと同じく、事前にいろいろやっておいたほうがよいことにいまさらながら思い至ったのである。

重戦機エルガイム、14-18話。チャイ・チャー殿が! 色恋を軸にしたダンバインに対して、本作ではアムとレッシィがダバに好き好きしてはいるものの、ダバ自身がそこに執着がなく、その他の人物においても愛がそこまで重要視されていないように思える。ギワザとネイや、ギャブレーとネイ、アムとステラなど、そこに線を引くことのできるキャラクターたちはいるが、それよりもポセイダルvs.反乱軍の対立軸が中心にあるように思える。これはいろんな国がでてきて複数の対立軸があったダンバインとのおおきなちがいのひとつである。次回予告にアシュラ・テンプルがでてきたが、とにかくロボットがカッコいい。永野護サイコーである。


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夜、鶏の唐揚げ、煮物ののこり、惣菜類。うまい。煮物のしみわたりがベリナイス。大根も手羽元もホロホロである。食後は1ヶ月半ひらいてなかった手帖をひっぱりだしてきて使用を再開し、制作のための素材あつめに精をだし、やりかけの作品のフィニッシュに向けてブラッシュアップする。なかなかおわったという感慨を得られないが、この記事がパブリッシュされる頃には日の目を見ることでしょう。ひとまず1月まではのびのびとやっていきます。

こんなに長い期間酒を抜いているのは何年ぶりかというくらいに酒を飲んでいない。オンライン飲み会の予定が来週にあるので、そこまで断酒しつづけようかしら。とくに努力もしていないのだけれど。

枯れた山、赤黄色灰赤黄色灰

お目当てのラーメン屋まではそれなりに距離があるため、車で1時間ほどの道のりを走っていく。都市と地方では距離のパースペクティブが変わる。道中の山々はあざやかに紅葉し、目に麗しい。だだっぴろい田園がこころをおだやかにするし、湖も見える。水量の減った湖面からは切り株がいくつも顔をだし、ふしぎな光景がひろがっている。たぬきもいた。


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うまみ! 山塩をつかってつくられている、しらぬまに土地の名物になっていた、チャーシューの風味がおもしろかった、


駐車していた車にはカメムシがたかっており、思わず悲鳴をあげた。わたしの天敵である。このようにしてあつまってくるのは、車体の色の問題だろうか。それぞれのドアの隙間を点検しながら、家へと帰る。とったかと思えば、まだいるよと這いだしてくる。路上には散った葉が雪のように降り注いでいる。

家に着くと、しばらくしてねむってしまった。体力の死を感じる。睡眠の自由というべきか。つかれたわけではないのだし。深夜の2時頃に目が覚め、ゆーちゅーぶを観る。MKRのポケモン対戦とドラクエモンスターズ。ジョーカーシリーズはやったことがないが、プレイ動画はたまに観ていた。最終回だそうだ。

朝食を食べ、舞城王太郎の『熊の場所』のつづきを読みはじめる。ラジオで予告してしまったので読みおわらせないとまずい。こうやって自分のしりをたたく術にもなってくれるので、週1ラジオは役立っている。〆切が作品を生みだすのである。祖母を呼んでお昼をいっしょに食べようということになったのでその支度をしつつ、翌日の唐揚げの仕込みもしつつ、表題作を読みおえる。妹も交え、3人で昼食。手羽元と大根と長ねぎの煮物。昆布と鯛だしできちんとだしをとり、しいたけの石づきまでいれたのでうまみの暴力がくちのなかでひろがる。食べたあとは夕方頃までたのしくおしゃべりする。仲良しか?

読書の相棒としてひさびさに音楽を流したらスピーカーの片方からノイズがでており、くらいきもちになる。しばらく通電していないうちにいったいなにがあったんや。それにしてもAppleMusicの∞マーク機能がすごい。ラブい曲がきちんと流れる。TOPSの2ndなんてめちゃくちゃひさびさに聴いたが、すばらしいアルバムである。ジャケもいい。来日のときにジャケにサインをもらったおもいでがある。ノイズは音量のつまみをひねったらなおった。幸い也。

みたんだよ

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ラーメンを食べにゆく、地元でいちばん好きなところ、何年ぶりかに食べたが今日も美味であった、、いつもよりすこしうす味だったかもしれないが、

たわしやら石鹸やらの日用品を買って帰る。小雨が降っている。家をでたときに外壁にはりついていたおおきなカマキリが、おなじ体勢でおなじ場所に陣どっている。 

ヤイコバックホーンがでたラブミュージックを観る。地上波! バンド演奏など何年ぶりなのだ? 売れるといいなと思う。マニヘブで配信ライヴデビューしようかしら。

夜はステーキ。いい肉である。ひとり暮らしではとても買えない。玉ねぎをすりおろしてガーリックソースをつくり、つけあわせはマッシュポテトとにんじんのバターソテー。肉は塩コショウをまぶしてレア気味に焼く。段ボールからわざわざタークのフライパンをだす気合の入れよう。味つけも焼き具合もバッチリ決まってべりナイスなディナーだった。フライパンに牛の脂がたまっていたので、白菜と薄切り牛肉を炒め煮にした。

早起き。ゴミだし。昨晩のつくりおきを丼にして食べつつ『MOVE』最終回。バングラデシュにルーツをもつ、ロンドン生まれのダンサー、アクラム・カーン回。ラストにふさわしいつくりだったように思う。終盤、作品発表の時期にコロナが被さってくるのは、単純ではあるが、そのドラマティックさに胸を打たれた。観ているわたしの現在の時間軸が作品のなかに嵌入してくることの劇的さ。70年代のバングラデシュ独立運動の様子の挿入や、それを下敷きにしたおどり自体のちからづよさも魅力的だ。おどっているひとたちのめぢからもすごい。

エルガイムを12-13話。ネイ・モー・ハンの髪色が変わっている! スパロボでは怖いひとというイメージしかなかったが、意外と人間味があっておもしろい。オルドナ・ポセイダルもこんな序盤ででてくるのかとおどろく。そもそもレッシィとアムのかけあいを見ているだけでたのしい。

父の観ているF91の音声をききながら、グラフィック作品の制作をする。事前にこうしようと決めずに、とりあえずいじってみようという風につくりはじめる。素材を選定し、色を決め、構成する。F91がおわる頃にはよい具合に方向が決まり、時間感覚をつかむいい例になる。F91は音声をきいているだけでも感動的だし、富野の台詞がすごくよい。「セシリーの花なんだよ!」、思わずなみだぐんでしまった。

また今日もラーメンを食べに行くことになった。ラーメン道、ひさびさにやっていくか!