コクトー梅酒

プリキュア観っぺえとテレビをつけたらマラソンだか駅伝だかにつぶされており、ショックを受けた。何年ぶりかのプリキュアとの対面が! 代わりに妹に釜玉うどんをつくる。わたしはインスタントラーメンを食べる。キャベツとそせじと卵入り。昨日のごはんとさほど変わらないのは冷蔵庫が枯れているからだ。

ラジオのロゴをつくりはじめる。ロゴデザイン、というよりもイラレがむっかしい。こんなしてパスをちまちまやってるよりインデザに特化していったほうがいいのでは、とか思いつつ、ある程度はイラレもつかえたほうがいいのだろうなとも思いなおしてドゥ・アンドゥ・ドゥ・アンドゥ。ともに2ヶ月ぶりの運用だが、てきとうにいじっているうちに感覚がもどってくる。インデザの、ひらいたファイルのうち未実装のフォントを勝手にアクティベートしてくれる機能がたすかる。アプデ多すぎだろと思いつつ、2021をこれからのスタンダードにする。

車に乗り、買いだし。おからパウダーにひさびさに再会してうれしい気分。これは発明である。郊外のでかめのリサイクルショップにも立ち寄るが、お目当ての書籍類はすみっこのちいさなスペースにしょっぼい品揃えでかためられていてなみだする。古着もてんでかわいくないものばっかり。ロボット魂のオーラバトラーヘビーメタルにはちょっと気がたかぶったけれど、中古品とはいえ高くて買えなかった。


f:id:seimeikatsudou:20201103165019p:plain
216


夜、ほうれん草と豚肉炒めをつくり、食べて即就寝。起床後、豆板醤を加えて卵とじにして食べる。ネトフリの『MOVE』のつづき。原語が英語でないからかイスラエル・ガルバンの回に字幕がでてこず、否応なしに吹き替えで観る。映像素材の少なさを感じる序盤、本人が街を歩くカットを両親の語りの合間に執拗にインサートする。子に理解を示すことのなかった親たちのはざまを、ひとり歩く男。フラメンコって映像映えしないのかしらと、その場で小刻みにステップをするさまを幾度もカメラにおさめるスタイルを観て思った。それもうごきというよりも、顔ばかり撮っている。ムーブメント的ではないということ? おどりのすごさか映像からはあまり伝わってこない。伴奏もそうであるが、音がそのおおきな要素として横たわっている。

キミコ・ミラー回は赤い照明に黒い肉体がうねるアバンのきょうれつさからしてオッとなる。ガールズパワー、ウーマンズパワー全開のジャマイカキングストン、あるいは奴隷制プランテーションにルーツをもつダンス「ダンスホール」の話。フェミニズムが画面には流れているのだが、主人公であるキミコが男の子はカッコよくなきゃと息子を教育しているのはどうかと思った。わざとのこしているのだろうな。成り上がりストーリーのように描くのも、家父長制的な既存の枠組みに人生を当てはめてしまっているのではと思わざるを得なかった。

MOVEの最終1話をのこしてロゴづくりの再開。だいたい完成する。リハビリにはいい作業になった。デザイン環境がととのったら週2回のペースで作品づくりをしていきたいとずいぶん前に計画したが、はたして。

じぶんしいたげないでじぶん

『あひる』を読みおえる。今村夏子の不穏さはくせになる。つかもうとする手からスーッとのがれていくような得体のしれなさが作品内に反響していて、しまいにはそれがあらぬ方向へといってしまって、それを呆然とながめるわたしがぽつんとのこされる読後感。『こちらあみ子』ほどの衝撃はなかったが、表題作のもつ、気づかぬうちにそれを構成するピースの一本一本がとりはずされているかのような不安感がよかった。後半に収録された2本は、そこで生じている奇妙な関係性──顔のない登場人物がたがいの作品にあらわれるような──は興味深かったが、これまで読んできた他の作品に比べてちょっと弱いような気もした。

読書記事でまとめようと思っていた『こちらあみ子』について書きだしていたテキストをこの機に成仏させておく。

14冊目、今村夏子『こちらあみ子』。筑摩書房、2014年刊。単行本は2011年にでている。こちらもはじめて読む作家。とても気に入った。3本の短編が収録されているが、どの作品も語り手は何者なのか、という謎が置かれており、それが推進力となって頁をめくらせる装置となっていると思った。なおかつ、その謎はべつにどうでもいいんだといわんばかりのむすびかたでどの作品も締めてあり、

この語り手の不明瞭さは本書でも一貫して維持されていて、読みすすめるにつれて被虐的かつ異質な存在として浮き上がってくるそのすがたが、滑稽であり、おそろしくもある。わたしも現在「あひる」の語り手と同じような立場で実家に潜んでいるので、その相似もおもしろく読んだ。

舞城王太郎熊の場所』を読みはじめる。『淵の王』のあとに読むとちょっと文体がきつい。ぱらぱらやっていると妹が起きてきたのでトーストを焼き、ベーコンエッグをつくる。かじりつきながらぽつぽつ話し、送りだす。父の熊と対峙した逸話がはさまれるあたりで文に乗っかることができ、そのまま半分すぎくらいまで読んだあと、寝落ちする。日が変わる直前に目覚める。ソーセージと卵を焼き、キャベツやキムチといっしょに米の上に乗せて食べる。ジャンク。ジャンクラブ。


f:id:seimeikatsudou:20201103140619j:plain


ひとつの〆切が過ぎ去り、精神的な解放があった。といっても、間に合わなかった事実とともにそれはもたらされたので、のびのびのばされた手足の愛だには、湿気た諦念も香っている。こういうざまをくりかえしていくことでわたしの「角」は摩滅し、しらないあいだに谷底へコロコロ落ちる羽目になる。許しがたいことだ。気合を入れなおすためにアドビを導入した。

乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』を数篇読む。どれもにやにやわらってしまう。こんなコンスタントにおもしろい文章が書けるってどういうことなんだと思うと同時に、それだけたくさん読んで書いてきたんだろうということがまさにその文章を通して伝わってくる。

また払込票がとどいていた。ここのところまいにちとどいている気がする。勘弁してほしい。無理無理。払えるわけがない。アンダークラスの生活をなめすぎだよ。

おはよう/向かう先なし

母が幼少の頃のアルバムを整理する。古いものは台紙に写真が貼りついてしまっており、はがすのに苦戦する。ときにはわたしの幼い頃の写真もあらわれたり、若い祖母のすがたを見かけることもある。フィルムカメラが廃れたいまでは、このようにしてアルバムに綴じられる記憶や記録もずいぶんと少なくなってしまっているのではないかと思う。物理的にそこにあることと、データとしてそこにあることには、やはりおおきな隔たりが存在しているように思える。大判のアルバムを5冊空にし、東京時代の公共料金と保険料を払いに近所のコンビニまででかける。ついでに期限の切れた保険証も返しにいく。風がつよい。横断歩道で止まらない車ばかりで、クソのような土地だなとおもう。水道代だけ払込の期限が切れてしまっていて支払うことができなかった。催促を待つしかない。それにしても手痛い出費だ。

今晩の献立は、韓国のり入りもやしナムルと、豚の角煮。八角と生姜と長ねぎで風味をつけ、黒酢を入れてさっぱりと。煮卵入り。つくるだけつくって眠気のピークがきたので寝る。日が変わる前くらいに起き、食べる。テレビでやっていたAマッソの漫才、というかコントがポリティカルでおもしろかった。住民税の請求書がとどいており、開封すると約9万円とある。きつすぎ! 無職をなめるな!

健筆。健康さが文にあらわれる。すこやかであることを、おのれの手が、書くことによって記述する。屈折したバロメータとして、書かれた言葉がある。そんなことをすこやかでない文章をいくつか読んで思った。休暇が3ヶ月目に突入し、あまりの日々の無為さにこころがくじけそうな瞬間がおとずれることがではじめた。わたしはわたしを肯定してやりたい。けっして無為ではない。観てるし、読んでるし、つくってるし、書いてるぞと。常識と呼ばれるような、へんな概念に毒されるなとほおをぺちぺちたたいてやる。わたしはいつまでも健康でありたい。


f:id:seimeikatsudou:20201101171531j:plain


エルガイムを9-11話まで。ネイ・モー・ハンのオージェ!とスパロボFでトラウマ的つよさをはなっていた存在をしっている身としてはゴリゴリにテンションがアガった。横に立っているのはアントンと、だれだっけ?みたいな記憶のあいまいさ。こんなにドタバタ劇を志向しているのに、たとえばアムを人質にしたり、ホエールを襲わせたりとサスペンスを生むための要素を入れることを忘れていないのがおもしろい。相反するものをドラマのなかに走らせている。チンピラのでてくる場面やひとを殴るシーンがけっこう多いのだが、チープな北斗の拳みたいな感じで、ちょうど時期的にもアニメが放映されている頃なので影響が多分にあるのではと思った。

ティエリー・デメジエール×アルバン・トゥルレー『MOVE─そのステップを紐解く─』を2話まで。本来であれば今年はバットシェバを埼玉で観ているはずだったのだが、疫病パワーによって来日が中止になり、そのかなしみを癒やさんとしてオハッド・ナハリン回まで観た。リル・バックとジョン・ブーズにフィーチャーした1話ともども時間的制約もあって掘り下げは甘いのだけれども、育った土地にフォーカスを当てて人種的な問題に光をかざすのは現代的なとらえかただと思った。登場するじんぶつのジェンダーバランスにも気を遣っているように見える。この「気を遣っているように見える」ことが、わたしのジェンダー観だけに根ざしているのではないのでは、などと思うが、じっさいはどうなのだろうか。こないだラジオで『フェミニズムはみんなのもの』をとりあげたときはそこまで深い話はできなかったのだが、このへんも含めてまた話してみたいと思う。

凶力メカコロ区

エルガイム、6-8話。ふざけが過剰だ。細かな部分までもおどけの芝居を執拗に挿しこんでいる。決め顔とくずれた顔の落差もすごい。レッシィはこんなにはじめから仲間フラグが立っているのだなとおもしろく見ている。「ありがとう、か。軍では聞けない台詞だな」、いい! またホロコースト的な描写があらわれ、物語のレイヤーがいちまい厚くなった感がある。それに伴ってようやく反乱軍が実態をもって見えてきた感覚。ゼオライマー後に観ているので、時間をかけることのつよさを思う。

3時に置き、これで早寝早起きができる、とうれしがっていたが、たったいちにちで崩壊した。ここ数年でいちばん長い時間寝ていた。許されるかぎり長いあいだ眠っていた。ねむること自体はハッピーなことなので、まあいいかというきもちではある。

今村夏子『あひる』を読みはじめる。文字がでかく、読みすすめやすそう。はじめのほうで宗教という語がでてきたが、彼女が抱えるテーマのひとつなのだろうか。テレビでは芦田愛菜が登場し、映画の宣伝をしているのをよく見かける。彼女の顔が印刷された帯が巻かれた『星の子』は、『こちらあみ子』を読みおえたあとに本書と同時に買い、いまだ積んだままである。


f:id:seimeikatsudou:20201031060851p:plain
215


さいきんつとに思うようになったのは、自分に対する「切り離し」の感覚が、わたしが考えるよりもつよく己に張りついているということだ。かつて労働に自己を委ねてしまっていたとき、わたしは自分が自分でない感覚、離人症のような感覚にとらわれることがよくあった。会社にいる「わたし」はわたしとはべつの「わたし」であり、そこで生じていることはわたしには何にも関係ないと思いこむことで、自らを守ろうとしていたのである。いまではそうした防衛反応が起きていると実感することはほぼないのだが、ときたまその残骸のようなものがほのみえることがあり、それはわたしの外殻として、プラスにはたらいているような気がする。分身感覚というか、たとえば「わたし自身のこと」がその場の話題としてあがっているときに、その対象を、その話をきいているわたしとはべつの存在として考えてしまうのだ。なので、どれだけそこで批判されようが、あるいは褒められようが、わたしとはちがう対象物への言葉としてそれを受けとってしまう。一種のクッションというか、バリア装置がつねに設けられている感じなのである。これにはいい点だけでなく、わるい点もあるのだろうが、自分でその発生をコントロールしているわけではなく、気づいてみればそうなっているので、わたしにはどうすることもできない。そのようにして考えてしまうくせが、離れがたくついてしまっているのである。

複素のスペクトラム

夜はカレーです。ヨーグルトも生クリームもないけれど、バターチキンカレーをつくります。具材は鶏もも肉、玉ねぎ、ピーマン。八幡屋礒五郎の七味ガラムマサラとインデラカレーのカレー粉をミックスし、ほかクローブコリアンダーナツメグを足します。ホールのカルダモンがあればよかったのですがありませんでした。具材を炒めたあとはトマト缶と牛乳と少量の水で煮こみ、はちみつ、ケチャップ、タマリンド、塩、しょうゆ、バター、中華スープのもとで味をつけます。好評でした。バターは臆せずたっぷり入れましょう。塩も容赦なく入れるのがおいしくするコツです。味の輪郭がつきます。


f:id:seimeikatsudou:20201027191754j:plain


とうとう3時台に起きることに成功しました。ちょっとはやすぎるきらいもないでもないですが、ここからまた規則ただしめな生活をしてゆくつもりです。日々にリズムをつけることは、縛りのない生活をしている身には必須といえます。わたしには浪人時代の苦くて甘い底なしのぬかるみのような経験があるので、ああはなりたくないという自戒があります。「食って、寝て、インターネットする」を四六時中くりかえしていただけのいちねんでした。いまも似たようなものかもしれませんが、幸い制作をする意欲とスキルがこの10年でつちかわれたので、「観て」「読んで」「つくって」というプロセスが追加されました。

youtu.be
満島ひかりのでているキリン一番搾りのCMがとてもよいです。時間のぬけみちを満喫する物語の提示。しっかりと尺をとった飲みっぷり、くわえてその音に、わたしもビールが飲みたくなります。


夜はカレーにくわえて、餃子の皮でパパドもどきと、にんじんとキャベツでコールスローをつくりました。かつおぶしを入れてうまみと風味を足しています。アチャールやらラッサムやらもつくって、ミールスをつくりたいなと思いました。

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』を読みおえました。名著です。フェミニズムにおける最適の入門書だと思います。本書からは、なによりも、階級意識を自覚せよというつよいメッセージを受けとりました。これは廣瀬純×小泉義之対談を題材にしたせんじつのダイアログのイベントでも話したことでもあります。ラジオでも話題に挙げました。この方向性では、上野千鶴子の『家父長制と資本制』をつぎに読みたいと考えています。

ラジオは集客がほんとにしょぼしょぼなのでどうにかしないとやる気がつづかないなと思いました。観にきてくださるひと、ほんとうに感謝です。アーカイブすると決めていればやれるんですが、しないと決めているので、無に向かって話す時間はちょっとつらいです。失業手当の入金をまずは待ちましょう。ロゴをちゃんとつくってから宣伝したいという、しょうもないプライドがあります。あと、放送が1時間で切れなくなってびっくりしました。今後は4時間までできるそうです。本放送開始時は、開局記念ロング放送しようと思います。

珍道

ハロワへ。いわゆる認定日というもので、失業手当がもらえるかどうかを判断する、無職のわれわれにとっては命綱のような日である。認定をもらうには受付の時間が決まっており、指定された時間に書類を提出しなくてはならない。わたしは免許をもっておらず、なおかつハロワはそれなりに遠い場所にあるので、必然的に公共機関をつかって向かうことになる。もろもろの書類をバッグにつめこみ、家をでる。

値段的に電車だなと駅へ向かうことにするが、家をでる時間がぎりぎりになってしまい、猛ダッシュする羽目になる。なんとか間に合い、待合室で息を整えていると、踏切が鳴りだしたのでホームにでる。乗車位置はどこじゃいなと探していると、なんと、電車は反対側のホームにやってくるではないか。向こう側に渡る唯一の手段である踏切はすでに閉ざされており、運転室に立つ車掌に対して必死で乗りたいジェスチャーをするも、完全完璧に無視され、定刻、車両は無情にも出発していく。

オイオイというきもちでグーグルマップをひらくと、なんと数分後にバスが来るというではないか。近隣のバス停を探し、ここかと時刻表をみると、どうも端末のディスプレイに映っている時刻とは異なる時刻が印字されている。しかしマップが指しているのはここでは?と画面を見ながら近辺をうろうろしていると、なんと、バスは反対側の車線からやってくるではないか。バスはあっという間にわたしの前を通過し、だれも立っていないバス停には1秒たりとも停車することなく、カーヴを曲がって視界から消えていった。

ふざけおって、、とまたグーグルマップをひらくも、もう受付時間に間に合う公共の交通手段はなく、わたしに残されたのは自転車か、ちょうど目の前にあるタクシー会社を利用するかの二択になる。料金をしらべると、電車運賃の10倍以上の値段が表示され、金をもらいに行くために金を払うなんてどう考えてもばからしいので自転車をとりに家に帰ることにする。ずっと使用されていないのはわかっていたので、まずは物置の奥深くから空気入れを発掘し、ひと汗かく。さあいざ、と空気を入れようとすると、なんと、タイヤのキャップがないではないか。これではどんなに空気を詰めても走っているうちにすべて抜け、ベコベコいわせながら走っていくことになる*1。ふざけてるのか??? 空気入れを物置にしまい、居間のソファにすわってため息をつく。逡巡したのち、駅のちかくまでまたもどってタクシーで向かうことにする。2500円也。無収入の身分にはデカすぎる額である。

タクシーの運ちゃんに「もしかして○○さん?」と聞いたことのない人物にまちがえられながら時間通りに受付をぶじ済ませると、カウンターの張り紙には1-2時間待ちとあり、それなりに混雑した待合席に座って、このクソみたいな日の記録を打ちこみはじめる。が、ものの10分程度で呼びだされ、みじかいやりとりをして失業手当の入金が可決され、同時に就職相談のほうにまわされる。失業手当を得るには、月に2回の就職活動が必要なのだが、この就職相談もその活動として記録されるので、今月はあと1回ハロワに来ればいいことになる。相談もちゃっちゃと終了し、こんなわずかの時間のためにおれの貴重な現金が……となみだをのみながらハロワをでると、後ろから「すみません」と声をかけられる。振りかえると制服姿の男が立っており、また職質かと身構えるが、彼が警察手帳の代わりに差しだしたのは自衛官と印字されたネームプレートだった。まさかこんな歳になって自衛官にスカウトされるなどとは。数分ほど世間話をして別れ、様変わりした祖母の家に立ち寄り、叔父に家まで送ってもらう。

*1:しらべなおしたらキャップがなくともべつに空気は抜けないそうだ、交通費……

marudebatsu

ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』を13章の半ばまで読む。どの章もうんうんそうだよなというきもちで読みつつ、ん?と思ったことをメモしておく。うんうんのほうもふくめて、おしりまで読みおえたら読書記事を書くかもしれない。

まず「資本主義的で家父長主義的なファッション業界や化粧品メーカー」、あるいは同様の「病院や医薬業界」に対する反発運動において、「自分たちの消費の力」をつかって「積極的な変化を引き起こ」すことの矛盾性について。すでにある枠組みのなかで改善を試みる改良主義フェミニズムを批判し、そもそもの制度をくつがえさんとする革命的フェミニズムを謳う本書が、消費の力=購買力にものをいわせるたたかいの方法を手放しに称揚(とまではいかなくとも)するのは、資本主義の制度にのっかりすぎてはいやしないか。もちろん、資本主義下でその制度に反抗することのむつかしさはよくしれたことで、そのちからを反転させる一例としてわたしはこの事例を読むけれども、そのことについてのエクスキューズが該当の章には見当たらなかった。

もう一点、中絶と暴力について。あらゆる暴力の根絶を謳いながら、中絶の権利を主張するのは欺瞞である。女性による子供への暴力を認識すべきだと著者はいうが、同様に、中絶は子供に対する暴力であることを認めるべきだ。わたしはそのうえで、中絶を肯定する。産める身体をもった存在の、当然の権利だろう。そして、革命を考えるうえで暴力を捨ておくことはできない。暴力なき革命など夢物語なのだから。


f:id:seimeikatsudou:20201030063424p:plain
214


自己の技術や活動をつたえる能力がいまわたしには必要とされている。自らをどのように演出するのか。正直そんなところに時間もちからも割きたくない。作品だけで語っていたい。

親しいひとがわたしに対して怒っているときにわらってしまうという話を以前書いたことがある*1が、いま10年ぶりくらいに家族と過ごしていて思うのは、この傾向は家族との関係性のなかで生じてきたのではないかということだ。今朝、母親ともろもろの家事をめぐっていくつかのやりとりをしていたとき、彼女はわたしに対して怒りを見せているのだが、それを受けるわたしはわらっているのである。怒りといってもけっしてキレているわけではなく、まだくっついた怒り、おふざけのようなアングリーぶりなのだが、そうだとしても、わたしは自分のうちからこみあげるわらいを止めることができず、荒れた呼吸をしながらあはあはやってしまうのだ。そして同様の感情のやりとりは1時間ほどのちに、関係性が反転した状態で、つまりは怒りの立場に立つわたしと、わらう側にいる妹とのあいだでも交わされ、そうかこれはこういう風にできあがっていったのかと合点がいったのだった。なんでもわらいごとにしてしまう生き抜いていくちからの横溢がここにはある。

*1:ざっと読みかえしたがべつに親しいひととは書いてなかったな