ぬまちの壺の膚を焼く

ヴァレリー・ミュラー×アンジュラン・プレルジョカージュポリーナ、私を踊る』を観た。とりあえずついーとの引用。

ポリーナ、私を踊る、原作に経済の問題が加味されて貧困女子成り上がり/上がれずストーリーみたいになっており、その翻案を興味深く観た。父親のクライム的なバックグラウンドと、師であるポジンスキー(髭がない!)が意味わからん存在になっていてウケる。スポーティなジュリエット・ビノシュが新鮮

あらゆる原作ものに関して「原作に忠実であること」はマジでどうでもいい、むしろ悪だと思っていますが、これは原作のほうがおもしろいです

わたしはバスティアン・ヴィヴェスの原作を読んでおり、作品単体を観る目とはべつに、比較する視線も映画には注がれる。作品の出来としてはまあぼちぼちで、観て損したとは思わないが、もとのものと比べるとかなりの改悪だったのではと思った。原作にない要素として、おそらくは犯罪のような業務で金を稼ぐ父と、娘をコントロールしようとするヒステリックな母という「こわれた家族」のモデルを導入して、なおかつ格差社会の反映か「貧しさ」の属性を与える。その代わりに、原作の根幹にあった主人公ポリーナの師であるポジンスキーの存在感をかぎりなくちいさくし、クラシックバレエを端緒に、コンテンポラリーダンスや街のひとびとのしぐさ、自然のすがたに触れながら、ポリーナ自身が「自らの踊り」を見いだしていくことに主題をうごかしている。それはそれでひとつの「成長物語」の枠組みで作品を語りなおすことではあるのだが、原作を抜きにして考えたときにさえも、さしていい出来になっているようには思えなかった。ともに原作にはないシーンだが、家にギャングが乱入してくる場面や、ちょっと卑俗さのあるバーのシーンなど、節々にどうも安っぽさがある。ポリーナの遅刻を待つシーンや、父の死といった、ところどころの展開をつくるための要素も、取ってつけたようなものとしてわたしの目には映ってしまった。

脚色はコンテンポラリーダンサー/コレオグラファーでもあるアンジュラン・プレルジョカージュが主に担当したようであり、がゆえに「ダンス」が前景化したのだろう(YouTubeでちらと振付作品を観たが、それはとってもおもしろそうである)。なので、ラストのダンスは見ごたえがあるし、いわゆるオーディションの場で、ポリーナの踊りを見つめる審査員の顔から舞台発表に切り替わっていく編集もカッコよかった。原作においてももちろんダンスはおおきなモチーフではあったが、その核にあるものは愛憎の入りまじったポリーナと師・ポジンスキーとのつよい関係性であり、それがダンスを通して描かれていたようにわたしは思う。映画においてそのリレーションシップはほぼ消滅しているといっても過言ではないのだが、なぜだか申し訳程度に描写されるので、映画のポジンスキーはクライマックスになぜか再登場する謎の人物に成り下がってしまっている。謎といえば、ポリーナの父親がまったくもって不可思議で、原作にはそのすがたすらでてこなかったのだが、映画では波乱≒ドラマを起こすための駒として娘の背景として横たわることになる。父親のまなざしは原作ではポジンスキーが担っていたが、それもこうしてあらたな登場人物に奪われてしまっているのだ。それがよくできた改変であったらいいのだが、まったくもってそうは思えなかった。愛の物語から、自分探しの物語へ。そうした転換が図られていた。


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アムもレッシィもかーわいい!


エルガイム、19-22話。とにかく22話「クワサン・オリビー」がすばらしい回。第1話で主人公ダバの口からたったのいちどだけ言及された義妹・クワサンが洗脳状態で初登場し、彼女が統率する商船に反乱の兆しがあらわれ、しまいには敵方アシュラ・テンプルの新武装としてめちゃつよ兵器バスターランチャーが初登場するてんこもり回。反乱も、亡ぼされた故郷の歌をひとびとが口ずさむことによってはじまっていくこころゆさぶる展開であり、それを遮る銃弾も容赦なくひとの命を奪っていく。逃走する妹を追うダバと、それを阻むギャブレーの戦闘シーンも、ロボット同士ではなく思念的な演出によって描写していて、胸が高鳴った。ダンバインのオーラ力やガンダムにおけるニュータイプもそうであるが、思念体によるやりとりは観ていて感情が高揚する。そこにはふだんよりも濃い台詞がある。富野作品のいちばんのつよみはなにかと問われれば、それは台詞のつよさではないかとわたしは答える。

22話に至る展開も、「強制収容所」という語によって表象される資源採掘惑星における蜂起が描かれていたりと、いよいよ反乱の波がつよく打ちはじめた。ダンバインが冷戦を下敷きにしていたように、本作は明確にユダヤ人差別・ホロコーストをひとつのモチーフにしている。また、「裏切り」もおおきな特徴のひとつになっている。アムも、レッシィも、ハッシャも……と主要な登場人物がもといた組織やそのとき所属していた団体を裏切るし、「反乱」自体もひとつの裏切りと思えば、つねにそのムードが作中にはくりひろげられている。反骨精神がからだに流れているわたしにとって、これはひじょうに興味を惹くつくりである。全54話のうちまだ半分も観おえていないのだが、どういう帰結を見せるのかいまからたのしみだ。