恥ずかしドラゴンが夜空で泣いてる

ひろプリ6話。初のW変身回。W変身の分けかたがおもしろかった。スカイの変身をベースにしつつ、プリズムの声を名乗り以外はバッサリカットし、5分割カットのうちふたつをプリズムに当てはめる画面構成。そんなふたりの「想いあう」関係性にフィーチャーした今回だが、圧倒的な尊さがあった。自身の想いを伝えるためにましろんのもとに走るソラ、そのシーンをモノクロ画面にする(ましろんあっての色づいた世界!)演出に胸がしめつけられた。カバトンがふたりのあいだを裂くようにして登場する場面では、その股ぐらからソラとましろんを覗くようなカットがあり、その画づくりのユーモアが光っていた(カバトンに対してソラが言い放つ「尺の無駄!」というメタい発言もおもしろかった)。序盤のダッシュシーンにおける漫画のような回転足が、バトルシーンでのランボーグの回転につながっており、その連接的なナラティブもよかった。脚本は守護このみ、絵コンテに志水淳児、演出はひろしまひでき。EDにはキュアスカイが早くもにどめの登場。新規3Dモデルのないプリキュアたちの登場は望み薄か。

夜、鶏胸肉の北京ダック風。妹のリクエスト。うまい。が、改善の余地あり。胸よりもものほうがうまいだろうし、薬味もあったほうがいい。味噌、砂糖、みりん、醤油、ごまでつくったタレは◎。小麦粉とお湯でつくった皮も、もちもち半分、カリカリ半分になってしまったので、allもちもちを目指す必要がある。

寝しなにランシエールの『平等の方法』をパラパラしている。

大江の死。たいした熱心な読者でもないが、ショックで胃が痛くなってくる。

夜、しめ鯖(既製品)、豚つみれ入りきのこ汁。舞茸椎茸えのき。うまい。

このところニャンズによって傷ができることは減っていたが、指の先をジャンプの際のふんばりの土台にされ、カッターで引いたようなきれいな真紅の直線ができた。

5gogoとまほプリ新作の報、さすがにヤバすぎる。あまりにヤバすぎる。圧倒的ヤバ。衝撃がでかすぎる。どちらも本編をぜんぶ通して観ているわけではないので、放映までに完走できるか??とあたまを悩ませもした。さいきん成田良美の名をプリキュアで見かけないのは20周年映画の脚本を担当するからなのでは?と思っていたが、5gogo続編のスタッフとしてガッツリかかわっているのでは???とさらにテンションが上がる。成田良美プリキュア脚本家のなかで断トツのマイフェイバリットである。

ここさいきんずっとこころにおもくのしかかっていたやればおわるがやるに至るまでがたいへんでおなじみの確定申告、ぶじ4時間くらいかけておわる。触れるのが1年ぶりなのでやりかたをずいぶんと忘れていたが、はじめての青色だった去年の所要時間が10時間だったことを思うと半分以上の短縮。ありがとう会計ソフト。今後どれだけいそがしくなっても、ひと月課金スタイルでなんとかなる気がする。

排気口/中村ボリ企画公演『人足寄場』、フライヤーデザインとコピーを担当しました、2023.4.5-4.9、荻窪小劇場にて、ぜひおいでください、詳細・ご予約は以下よりどうぞ


▼詳細・ご予約

https://www.tumblr.com/seimeikatsudou/712089278740578304/ninsoku
seimeikatsudou.tumblr.com


始発に乗り、完成させた書類を直接投函しにゆく。駅にはかつてないほどのひとがおり(とはいっても通常が多くて2-3人規模の無人駅の話である)、制服に身をつつんだ彼彼女らを見て、通学の時間帯なのだとなつかしい(?)きもちになる。「今日終業式?」とべつの学校の友達に話しかけるこの寒さに素足スタイルをつらぬく女学生、修行かと思う。「マスク着用が個人の判断」となってから(元からそうだろうがボケが!というきもちは押し殺しつつ)はじめての外出だったが、見渡すかぎりみなマスクをつけていた。

投函後は近場の公園をぷらぷら散歩し、途中見かけた手頃な石の上に座って大江を読む。『見るまえに跳べ』。ずいぶん前、たぶん大学時代に買い、冒頭の「奇妙な仕事」だけ読んで放置していた。「動物倉庫」「運搬」と読み、「鳩」の冒頭に差しかかったところで蚊の猛襲と寒さの限界が訪れ、散歩を再開する。「奇妙な仕事」同様、ともに動物と仕事をつかった寓話的世界が重量感ある文体で築かれており、おもれーとなる。付箋を貼ったのは以下3の箇所。

倉庫番 (興奮して歩きまわる)あの学生が蛇の腹の中で消化されて蛇の栄養になってしまう……それを放っておくことはできない。(興奮の身ぶるい)あの男が蛇にすっかり消化されてしまうと、あの男はどうなるんだ、え? 人間が死ぬ、死体が残る。そして埋葬される。俺は人間の精神だけがその後に残りつづけるなどということを信じはしない。しかし死体は、ちゃんとその人間の死体として残る、そしてその人間の死体として火葬される。灰になった骨のかたまりが埋葬されて、それは一握りの土になるだろう。しかしそれは、その人間の土なんだ。ところが、あの学生は蛇に消化される。そして蛇の血液と肉と、少量の排泄物ができる……あの学生の死体は残らない。消化が終ったとたんに、学生はすっかりどこにも存在しなくなるんだ。後に残るのは蛇だ、根強く残りつづける。突然、学生が消えてしまって、焦げた骨一片残らない、ただ蛇が肥るだけというのはどうだ。

なんとなくわかる気もするが、倉庫番独自のヒューマニズムロジックが展開される長めの台詞。この「なんとなくわかる」のがミソで、規範を逸脱しないままに義憤を昂らせる男の主張に、観客(本作は小説でなく戯曲である)の意識はグッと彼にクロースアップされるのではないだろうか。いくつかのどんでんがドラマの起伏をつくっている「動物倉庫」のなかでは、こうした「硬さ」、折れないであろう「頑なさ」が、そのダイナミズムの崩れる支柱となって作用している気がする。柱が強固に見えるほど、崩壊=どんでんの際の衝撃はおおきいのである。

「砂を肉に喰いこませるなよ」と、仔牛をじかに凍り始めた地面へおろそうとする僕へ傭主が声をかけた。

2分割したどでかい牛肉をそれぞれ自転車の荷台に載せてふたりの男が野犬たちの潜む夜の街を走っていく短篇「運搬」。肉が地面につくことを嗜める際に「砂を肉に喰いこませる」と言い回させるのにしびれた。ふつうのにんげんはそんないいかたをしないわけで、傭主の手練れ感があらわれるとともに、読み味を形成するのはこうしたディティールにあるのだということがよくわかる。

夕暮れると僕らあさぎいろの服を着こみ、やはりあさぎいろの地に藍の線の入った帽子をまぶかにかぶった者たちは、少年院の昏い光にとざされた中庭を黙りこんだまま横切り、所どころに血いろのしみのふきでている高いコンクリート壁の下まで歩いて行くのだった。

いや、カッコよすぎるだろと貼った。「夕暮れる」「あさぎいろ」「まぶか」「昏い光にとざされた」「黙りこんだまま」「血いろのしみのふきでている高いコンクリート壁」。ちからのこもりようが半端ない書きだしだ。初読時、どこかで聞いたなと思ったがSさんもこの箇所を暗唱していたのだったか。若き(いまのわたしよりも遥かに!)大江のみなぎりを感じた。