自らを殺さない方に行く

自己の感性への信頼が裏切られるような出来事のつみかさねがわたしを〈世界不信〉へとみちびき、生は無の連続でしかないということを容赦なく告発する。幾度も経験したドス黒いあざやかなひかりが、まあたらしい皮膚をまとった無軌道のけものが、何重にも周到に手折られたはげしい高波が、わたしの内臓から無数の穴をあけて漏れいでていることがわかる。救いは外にない。わたしのうちに起こるあらゆる情念は制作へ向かう。内破した自己が、また新たな傷を生むための破片となってかかやきだす。


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去年にひきつづき、ジンギャザ2019に参加した。当初はまたこのブログから記事を抜粋して日記ZINEをつくろうと思っていたのだが、読みかえしていて、あまりにも暗すぎたのでやめたのだった。文章の節々から性根の暗黒がでている。単純に「生が無残である」ことの反映であるともいえる。わたしに筆(指先)をとらせるのはおもに世界に対する反発/反抗だということもある。むなしい。が、生きねばとも思う。入手したZINEを日々ちまちまと読みすすめているが、「そこにある」ことの鮮烈さがとてもまぶしい。

目「非常にはっきりとわからない」@千葉市美術館。今年のワースト。ひとがたくさん入ってること自体にも腹が立つし、そのなかのひとりになっている自分のことを恥入る。目の曇り。グレゴール・シュナイダーを支持し、本作を支持しないわたしの態度はいったいどういうことか。そのうちわけを腑分けしようと一瞬思うも、その労力を手放してしまいたいほどにつまらない展示だった。これは作品自体の問題だけではなく、受容のされかたにもその理由が根づいているように思える。位相を低空に配置することへの反逆、「いまこそ難解な虚構が求められなければならない」。つねづねわたしの支柱となる言句である。

こおろぎ、奇妙な映画、すばらしい役者が映画をすばらしくすることは稀だが、すばらしい映画は役者をすばらしくするということがまざまざとわかる体験、鈴木京香はこれまでまったく顧みたことのない役者だったのだが、画に配されているそのあり方にほとほとしびれてしまった。青山真治の映画を観るのは恥ずかしながら初めてで、ほかの作品も観なければというきもちにさせられた。神秘への信頼を看取した。

よくもまあ、、といいたくなる出来事が今月になっていくつも到来しまくっており、ひとをなめくさるのもいいかげんにしてほしいと自暴の気配があふれだしているが、まさにそのことを自らの文章が予期していることにたのしいきもちになってしまう。倫理を根底から引っぺがして、いかにあなたと向きあえるのか。信に値するものが何一つないことのぜつぼう。情動はつねに死を欲望する。