ハイチの起床

0/100で考えるものごとのおもさを、1-99のグラデーションによってはかりなおすだけで、多少は心も晴れることがある。なぜひとは極端なものに安心をおぼえるのか? 宙吊りに自らを留めうる忍耐をもたないからである。あいだにとどまりつづけることの苛烈さに耐えていこうとする意思をわたしは何よりも信頼する。ずっと同じことをいいつづけている。持続的抵抗への共苦する感覚をもちつづけること。

ことさいきん考えるのは、わたしたちが似たようなことを考えている(あるいは異なることを思っている)ことをどのようにたしかめたらよいのか、ということである。丹羽良徳の《誰も行きたくない所へ全員の意思で向かう》あるいは「誰も要求していない計画に全会一致で合意する」ことの不可解さ、どうしようもなさ、それぞれがきちんとした思考する術をもっているはずなのに、なにゆえわたしたちは地獄に驀地なのか。これはアビリーンのパラドックスと呼ばれる現象のようである。ディスコミュニケーションの何重もの囲みからするすると脱皮してゆきたい。わたしはあなたにたどりつきたい。


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十何年ぶりかに釣り堀へ行った、4匹のニジマスを釣り、3匹を食べ、1匹を野良猫にやった


電話口にむかって「without you.」というひとを見て、わたしはつねにそのyouのがわに立ちたいと思った。初冬の昼下がり、会社のまえの歩道での出来事である。イヤホンを紛失してから街なかの会話へと意識をのばすことが必然的に増えている。出勤時間をはやめたおかげで満員電車のストレスは多少低減しており、音楽なしでもなんとか生きのびているのだけれど、なんど考えなおしても始業時間に余裕をもって会社に来なさいという上司の命令はおかしいと思う。こうしたくそくらえの社会はわたしたちの世代でおわらせなくてはならない。

未来と芸術展@森美術館、わたしは建築の素養がないのであまりたのしめなかった。展開される芸術の範囲がおおきく、エンタメ感マシマシの様相についていけないと思ってしまった。家族の話をしている作品はよかった、4人の親による2人の子供。わたしが産める身体を手に入れることがあれば子をこの身に宿してみたいと思う。MAMスクリーンも爆睡。唯一のよい出会いはMAMプロジェクトのタラ・マダニ、下劣で、グロテスクで、残酷なアニメーションとペインティングがよかった。

今年の(も?)ライヴ納めはオウガだった。2019年はよいこともたくさんあったけれど、総括としてろくでもない年だったなという気がしていて、ただそんなくそみたいな一年を塗り替えるような鮮烈なライヴだった、現代日本最高の実演芸術・オウガユーアスホール、観る涅槃、聴く神話、観おえるたびにけっして安くはないお金を払って演劇ダンスライヴそのたもろもろに行くのがバカらしくなる、そう思わせてくれる稀有な存在、この感動をわかちあえる友人がほしいね、、