線形サンダーブレーク

外山恒一トークイベントでありえないと思ったのはだれだかしらないがおれが席をはなれているあいだに飲み物が入ったコップをひっくりかえしてひとのかばんといすをびちゃびちゃにしておいてそしらぬかおで放置してゆくその心胆だよ、会自体はおもしろかったし、活動家たちはまだバリバリやっているんだとか、自分よりも若い10代のひとたちもけっこうきていて政治的身体はこうして脈々と云々とかいろいろ刺激を受けた夜だったのだがその一件で心底萎えてしまった、こうしてまたおれの偏見が増長されてゆく、ラディカル、ラディカルへ

廣瀬純がいうひとは勉強すればかならず左翼になるというのは実感として真理だと思っているのだけれど、このベクトルは左翼を通過して右翼に行き着いたりもするんだろうと思った、質問で時間のスパンの話がでてきていたが、そもそも右翼も左翼も時と場所が変われば入れ替わったりまざったりしているわけで、それぞれの人間がそれぞれの思考の強度を獲得していく行為をつきつめていくことがよりよい世界の実現(左翼的?(笑))のためには必要だと現時点ではかんがえている

トーク中にメモしたのはこんなもの、階級闘争の代替物としての反差別、マルクス-レーニン主義ひくマルクスファシズム、排外主義と反グローバリズムの相剋。

トーク、アジアンアートアワードでもアーティストトークをきいた、メモしたのはこんなこと、トーククリシェに回収されることへの抵抗、何らかの意味性を反転させること=ガマを人々が生きのこった、生の場所として考える、ヴィリリオの「事故の博物館」とメディアアートクリシェについては言及があったわけではなく話をきいていてそう思った、紋切り型の言語活動からいかにして離脱するか、突飛さの有用性について、たとえば山城知佳子がいっていた「どこでもない、(がゆえに)どこでもある」……、渡辺豪展「ディスロケーション」@横浜市民ギャラリーあざみ野のステートメントでもみた、相互認識のためのコードの更新を図ること、それは観者のリテラシーにも深くかかわる問題だ

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横浜市民ギャラリーあざみ野は新井卓展ではじめていったのだが、とてもよい感じの場所でおすすめ

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そういえばサンシャワーにもいったのだった、全体的に国新美の方がよかった

展示自体は山本高之の作品がおもしろかった。出品されていたのはそれぞれ人間ひとり分のサイズの段ボールに入った中学生たちが、ひとりで、ふたり(搭乗機となる段ボールが連結される)で、全員で……と体育館でうごめく《Dark Energy》や、わたしに嘘をついてくださいと道行くひとに嘘をついてもらう《Lie To Me》のふたつ。トークもフェイスタイムを介してロンドン-東京間でおこなわれたのだが、接続不良による間だったり断絶だったり、山本自身の飄々とした話っぷりが魅力的だった。トークイベントの司会であり本アワードの審査員でもある小澤慶介が、自らの読解も踏まえながらこのふたつの作品はどんな理由で出品したのかと問うたときの「いまやれることを精一杯ね、やっただけです」といったようなニュアンスの答えは、一見はぐらかしのように思えるのだが、つまりこれこそがコードからの逸脱として機能しているように思った。

またコンタクトゴンゾの《サンダー&ストーム バイオ有限会社》も映像との物理的な格闘(の疑似イメージとの衝突?)という未体験の鑑賞を強いられてひじょうに興味深かった。

グランプリを獲った山城知佳子の《土の人》も、肉声による戦争イメージの再現を、シームレスに現代的なボイスパーカッションに変奏することによって、じつにエモーショナルなとまどいとおどろきを生じさせていた。作品を鑑賞する際の椅子であり、展示空間に点在しているオブジェでもある無数のスピーカーは、わたしの尻のしたから音をとどろかせ、歴史はつねにわたしたちの下敷きとしてあることを、瞬時に自覚させる。納得の受賞である。

E.S.Vのニューアルバム『ぬけ道』がめちゃよいのでみんなきいて!