しかるべき強制への対峙

いまの日本でニュースを見たり読んだりしていると、ろくでもない出来事ばかりが視界に入ってきて世界に対する悪意ばかりが募り、思考は砥がれるがその過程で生まれる言葉は負の文句ばかりだ。それらはよく練られていない、不完全な書きつけではあるが、次なる思考の土台となってわたしを立ちあげる支えとなる。とはいえ、そうした抗いの文章を瞬発的に発語することをひかえたいというきもちがある。ためらいのあつみをなけなしの言いわけにしている? まだ発されない、市井からの非難の声に、うるせえよという地声があたまのなかで鳴る。


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冷夏のまま秋に突入してほしかったがそうはいかないと気温はあがりつづけている。すばらしいことに我が家はゴキブリがでない家だったのに、先週は3、4日連続でわたしの目のまえにあらわれ、キッチンにブラックキャップを置きまくる羽目になった(12個って多くない?? でも置いてからはたしかにでていない)。昨夏とちがうことといえば隣の隣の部屋の住人が外の共有スペースにダストボックスを置いていることだなと思い至って突きあがるなかゆびの衝動をおさえることができない。ほんとうにそれが原因なのかはさておき、、

しごとがいそがしくなってきた。ひさびさに週休0を味わった。まだ火曜日だというのが信じられない。けっしてつまらないしごとではなく、むしろいま携わっているのはやりがいのあることなのだが、この時間が奪われる感覚はほんとうに耐えがたいと思う。かつていちにちかぎりのちいさな映画祭のパンフレットをつくったことがあるのだが、その当日に休日出勤の命がくだってしまい、けっきょく会場に行くことができなかったことがある。上司に訴えようが、それを飛び越えて社長に直談判しようが、わたしは深夜になるまで会社をでることができなかった。パンフを受け取ることさえできていない。おれはそのことを一生忘れないと思う。死ぬまでおぼえているだろうと思う。