正常な漉きで増えた水辺に

腰を据える、肝が据わる、地に足をつける、というようなことでいえばたましいが落ちている、たまおち、ここでいう落ちるとは落ち着くにちかく、堕落などではなくて、はらおち、とはまたニュアンスがちがうのだが、そのような状態にある。

さめていく。温度がほどかれていく。言葉を信じないと詩人たちがいう。どの境地でそういうのかはしらないが、そんなことはないと考える。言葉は現実をつくる。彫像する。つめたい亀裂がわたしの胸中を走破する。五十嵐大介が『魔女』か何かでいっていた。言葉は魔法であると。ほの暗いいらだちの方へと向かうわたしの足どりもまた、意識を強化するのであった。

便器にめがねを落とした。このかなしみは便器にめがねを落としたやつにしかわからない、そういいたくなるかなしみだ。


上記は2週間前に書いた。いまのわたしはまたちがう状態にある。その後もいろいろあったことがうかがえる。それらはまた明日以降書く。さいきんは森元斎『アナキズム入門』を読んだ。反権力、サイコーだ。読みおわって、「自発的な自由を求めるための絶え間なき格闘」という言葉が浮かんだが、はたしてその自由を求めな(られな)い人たちはどうなるのか。アナキズムは弱者を救うようでいて、強者の思想であることを逃れられないように思う。ひとは宙吊り状態=自由を勝ちとるための連闘に耐えられる者ばかりではないだろう。とはいえ、資本主義も共産主義も行き着く先は地獄であることを20世紀が証明している。ではどうすればいいのか。そこを考えながら生きることを、一人ひとりが実践していく(負荷/戦争の分散化、個人化、自己内在化)しかないように思う。それは庄司創が描いた『勇者ヴォグ・ランバ』的世界に接近しながら、「自覚的想像力」というようなものを養える教育があってはじめて成立するのではないか。ああ伊藤計劃はやっぱすげえんだなって感じだ。『虐殺器官』観にいこう。なんてったって監督は『エルゴプラクシー』の村瀬修功だしね!